岐阜県可児郡御嵩町の国道21号沿い、屋根付きの囲いに覆われた石碑が立っている。「いつみ式部廟(びょう)所」。石面に刻まれた流れるような文字は、まるで和歌をしたためたよう。平安時代の三大女流歌人の一人、和泉(いずみ)式部を祀(まつ)った墓と伝わる。
和泉式部といえば、恋多き女性として名をはせ、たくさんの叙情的な和歌を残した。藤原道長からは「浮かれ女」と呼ばれ、中宮に仕える同僚女房(女官)の紫式部からは「和歌は素晴らしいが、感心できない面がある」などと批評されたエピソードも知られている。
有名なのが宮廷ロマンスだ。最初の夫橘道貞との結婚が破綻すると、冷泉天皇の第三皇子である為尊(ためたか)親王、その弟敦道親王との恋に次々と身を投じる。二人はいずれも早世。その後は、一条天皇の中宮・彰子に仕え、道長の近侍と再婚したという。晩年の詳しい動向は分かっておらず、墓とされる伝承や逸話は、東北から九州まで全国数カ所に存在する。
その一つが御嵩町の廟所だ。説明板には、和泉式部は「東山道を旅する途中で病となり、鬼岩温泉で湯治したが1019年にこの地で亡くなった」との伝承が記されている。恋に疲れ、心の赴くまま癒やしの旅に出たのだろうか。中山道みたけ館の学芸員栗谷本真さん(53)は「信ぴょう性はともかく、平安を代表する女流歌人が御嵩に来て和歌を詠んでいたかもしれないと思うとロマンが広がる」と語る。
廟所があるのは、井尻地区の国道と旧中山道(県道358号)の分岐点付近。建てられた時期は不明だが、江戸中期の中山道ガイド本「岐蘓路安見(きそじあんけん)絵図」には「いぢり村の内にいづみ式部の塚有(あ)り 住居の跡といふ」との記述で登場している。栗谷本さんは「江戸から中山道を進むと、木曽の山々を抜けて御嵩辺りで開けてくる。当時は街道の目印となる観光名所だったのでは」と想像を巡らす。
碑には〈ひとりさへ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ〉という和歌も刻まれている。本人が詠んだものか、碑を建てた人たちが作ったのか。どこかさみしさを漂わせる歌は、病に倒れた和泉式部の心情を映しているようにも感じられた。
アクセス:中山道みたけ館から車で5分程度 国道21号沿いだがやや見つけづらい
概要:石、高さ約1.7メートル 厚さは約24センチ
※名前、年代、場所などは諸説あります。