貝のしぐれ煮や昆布のつくだ煮が並ぶ店に立つ佐合達朗さん(中央)=16日、岐阜市日ノ出町、岐阜貝新日ノ出町店
ミツバと一緒にご飯にのせたアサリのしぐれ煮

 岐阜高島屋の白いビルを目の前に望む、4.5坪のこぢんまりした店。本漆の朱色が映える木桶を取り出すと、盛られたアサリのしぐれ煮から、たまりの芳香が立ち上った。

 「貝のうま味とたまりのバランスというか、相乗効果かな。自分が納得のいくものだけを売っている」としぐれ煮専門店「岐阜貝新」の佐合達朗社長(75)=関市=。むき身にしょうがを加えて煮た保存食は、俳人松尾芭蕉の弟子で美濃出身の各務支考が名付けたと伝わる。

 店は1966年、刃物の表面加工の技師だった父親の朝平さんが始めた。技術指導先の三重県のベアリング会社でもらった名産の味にほれ込み、同県桑名市の老舗に直談判。共同出資の形で販売会社を興した。

 

 東北から九州まで貝や昆布の加工業者を訪ね歩いて仕入れ先を広げ、長良橋通り沿いの神田町店で売り上げを伸ばす。「苦労人だったせいか、人の懐に入るのが上手な人だった」と達朗さん。断られても日参を重ね、新岐阜百貨店(2005年閉店)にも出店。中元や歳暮の季節は、従業員総出で箱詰めに追われた。

 経営を引き継いだ達朗さんは89年4月、柳ケ瀬地区の一等地、高島屋前に進出する。繁栄のピークを過ぎても、まだ衆楽館や松竹などの多くの映画館に囲まれ、にぎわっていた。しぐれ煮を含むメニューのおしゃれな丼物専門店を2階に開くと、若い女性が列をなした。

 朝平さんは経営を心配し、出店に大反対だったという。亡くなったのは、その年の6月。入院先を抜け出し、遠巻きに盛況を見届けたと死後に副院長が教えてくれた。

 創業から約60年。全国の海や川で貝が採れなくなり、製造を委託している加工業者の廃業も相次ぐ。そして、7月末に迫る高島屋の撤退が、達朗さんら周辺の商店主の心を揺さぶる。

 岐阜で最後の百貨店が消えれば、購買力がある客層が集まらなくなると思うからだ。値が張っても、上質なしぐれ煮を求めてくれた常連客の姿とかぶる。「あんたんとこは、どうするんや? よそのでは困るでな」という、なじみの気遣いがうれしい。

 親子で守ってきた貝の味。「今も一生懸命やっとるのは、子どもの頃に食べた貝のおいしさが、いまだに口の中に残っとるからや」。柳ケ瀬の行方に気をもみながら、アーケードの下を行き交う人の姿を眺めた。