昭和30年代ごろの「ロバのパン」の馬車。「ロバ」に子供たちは興味津々だった(渡辺さん提供)
「ロバのパン」を全国に広めた桑原貞吉(同)
懐かしいメロディーとともに移動販売車で売るスタイルは変わらない「ロバのパン」=岐阜市岩栄町、一惠庵ロバのパン工房

 「ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロン やってくる」-。カッポ、カッポと、馬のひづめの音のような軽快なリズムに続き少女の歌声が響く。スピーカーから流れる歌に誘われ、公園脇に止めた赤い車に人が集まってくる。昭和の子供たちに愛された移動販売の蒸しパン、通称「ロバのパン」は岐阜県揖斐郡揖斐川町出身の男性が全国に広めた。馬車でパンを売っていたのが呼び名の由来で、そのスタイルを最後まで貫いたのも岐阜だった。

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 「皆が思い出を胸に抱いて来てくれる」。「一惠庵(いちえあん)ロバのパン工房」(岐阜市岩栄町)社長の渡辺真理子さん(63)が接客しながら話してくれた。「よくロバを追い掛けたものだ」「昔は貧乏で買ってもらえなくて」「キラキラした"宝石パン"が大好きだった」。客の話は尽きない。

 皆が懐かしそうに口にするロバのパンとは、音楽を流しながら馬車や車で住宅地を巡回販売していた「ビタミンパン連鎖店本部」(京都市)の蒸しパンのこと。同郡谷汲村(現揖斐川町)生まれの創業者桑原貞吉(ていきち)(1901~72年)が、各地の小売店に独占販売権を与える「連鎖店」、つまりチェーン店の仕組みを取り入れ、全国に展開した。

 昭和30年代(55~64年)にパンを売る馬車を全国の連鎖店に導入し、当時発表されたばかりの童謡「パン売りのロバさん」を蓄音機で流しながら巡回したところ一大ブームになった。

 貞吉については、2代目社長の勝美さん(故人)とも親交のあった南浦邦仁さんの著書「ロバのパン物語」に詳しい。同書によると、貞吉は親戚のまんじゅう店ででっち奉公していたときから商才を発揮し、谷汲山華厳寺の参道で大正琴を演奏しながらまんじゅうを売りさばいたという。

 京都市に移り、まんじゅうとパンの店を開いた。表面の皮が弾けてあんなどの具材が見える蒸しパンは珍しく、卵と牛乳が入っていないのに甘い香りがすると評判になり、連鎖店を全国に募って56年にビタミンパン連鎖店本部を創業した。

 子供たちの興味を最も引いたのは「ロバ」の存在だった。しかし実際に車を引いたのは日本在来馬「木曽馬」だ。昭和30年代は農業の機械化や化学肥料の浸透で農耕馬が不要となりつつあった時期。貞吉は岐阜の博労(馬の仲買人)に依頼して県内の農家から数百頭を買い集めさせ、全国の連鎖店に送ったという。狙い通り、馬車のパン屋は子供たちに大人気となった。

 ロバのパンのルーツにつながる岐阜にも、58年に連鎖店ができた。渡辺さんの義父黒沼安広さん(故人)が岐阜市に立ち上げた「ロバパン本舗」。渡辺さんによると黒沼さんは元々馬車の御者を取りまとめる仕事をしていたらしい。「アカ」と「アオ」という2頭の馬が活躍したという。

 モータリゼーションの進展で各地の店が次々と自動車に切り替える中、黒沼さんは70年ごろまで馬車での販売を続けた。「義姉が生前、『1頭の馬が死んだとき、もう1頭は笠松競馬場に引き取られた』と言っていた。最後まで馬車を引けたのは競馬場から馬を調達できたからでは」というのが渡辺さんの推理。ただ競馬場は「記録がなく職員も聞いたことがない」とのことで、真相は謎だ。

 県内の6店は、黒沼さんが92年に引退したのを最後に姿を消し、約20年をへて渡辺さんが復活させた。連鎖店は現在、京都の本部と岐阜を入れて全国で4店。お金を握りしめ、色とりどりの蒸しパンに目を輝かせる子供たちの姿は、当時と変わらない。「コロナ禍で子供たちも疲弊している。精神的な支えになれたらうれしい」。渡辺さんは「ロバのパン」を守ろうと意気込む。