岐阜県加茂郡白川町から満蒙開拓団の「黒川開拓団」に参加して渡った旧満州(中国東北部)で、旧ソ連軍から受けた「接待」と呼ばれる性暴力について証言した佐藤ハルエさん(99)=郡上市高鷲町ひるがの=が18日、死去した。戦後はひるがの高原で酪農を営み、開拓魂を抱いて大地と共に生きた女性は、タブーに臆せずに体験を語り続けた。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」筆まめで動物好き。チャーミングだが信心深く堂々とした人だった。初めてハルエさんに会ったのは2018年、93歳のとき。開拓団での暮らし、敗戦後に未婚の10~20代の女性が「接待」を強いられた経緯を7時間にわたるインタビューで語り続けた。「団を守るためにやったのだから、恥ずかしいことじゃない。戦争ではばかげたことが起こるのだと、あんたがたには知ってもらわにゃいかん」。語気強くかみしめるような口調だった。
日本に引き揚げた後も後遺症の治療のため隠れて病院に通い、古里では差別的な言葉を投げつけられた。夫と共にひるがの開拓に身を投じ、子どもたちを育て上げた。敗戦前に言い聞かされた「性を提供しろといわれても日本婦人として恥ずかしくない対応をせよ」という教えを支えに性暴力を耐え忍んだとハルエさんから聞いたとき、誇り高く生きる女性の心の底に流れる悲しみを垣間見た。
13年にハルエさんは満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)で顔と実名を出して被害体験を語った。それまで旧満州から日本への逃避行中にあった女性の性暴力被害は目撃談が語られることがあっても被害者が公表することはなく画期的な出来事だった。以降、「重い口を開いた女性」としてメディアに取り沙汰された。
しかし、ハルエさんは戦後70年を経て初めて被害を告白したのではない。以前から「犠牲になった女性たちを忘れないで」と世間に訴えていたにもかかわらず、名前や証言が活字から省かれてきたのが真実だった。
58歳のときには雑誌取材に実名で被害の詳細を話したが、特定を恐れた別の被害者の要望で掲載時には地名や人物名が仮名に変えられた。70歳のときにはひるがの開拓の歴史を取材しに来た本紙記者に「実名で構わないからこのことを書いて」と雑誌を手渡したが記事になることはなかった。
「接待」の事実を70年近くも秘匿したのは日本社会そのものだった。性暴力被害を恥ずかしいことと見なし、被害者にレッテルを貼る空気がハルエさんの存在を透明にした。2018年、「話してくれてありがとう」と講演後に聴衆から堅く手を握られたハルエさんは、頰を上気させ喜んでいた。長い間待ち望んでいた言葉だったに違いない。
旧ジャニーズ事務所の性加害問題が大きく報道される現在、日本は性暴力被害を語ることをタブーとせず被害者に寄り添う社会に生まれ変われただろうか。メディアを含めて常に自省する必要がある。ハルエさんの言葉はこれからも私たちに投げかけられる。
「あんたがたには知ってもらわにゃいかん」
(大賀由貴子)










