太平洋戦争末期に、旧日本軍が開発した「風船爆弾」。気球に爆弾や焼夷(しょうい)弾をつるし、偏西風に乗せて米国本土を攻撃した秘密兵器だ。気球に用いた原紙の多くは、10代の女子学生が兵器の一部と知らされず貼り合わせて造ったという。岐阜県内でも、本巣郡北方町にあった本巣高等女学校(本巣松陽高校の前身)で行われていた。15日で終戦76年。当時在学していた翠八重子さん(90)=同町=は「子どもたちに学校で兵器を造らせるようなことは二度とさせてはいけない」と語る。
グーグル検索で岐阜新聞デジタルを優先表示!便利機能で岐阜のニュースをチェック学校生活が一変したのは1945年、2年生の3学期、14歳の冬だったと記憶している。授業は一切なくなり、作業への従事を指示された。校庭に並べられた台の上に畳ほどの大きさの和紙を置き、5~6人が一組となってコンニャク糊(のり)で3層ほどに貼り合わせる日々。「いったい何に使うのだろう」と不思議だったが、教えてもらえなかった。
多くの女学生はかすりのもんぺ姿で、満足な防寒具もない。「寒くて、手が冷たくて、つらかった」。朝から晩まで凍える手で冷たい糊をのばしては和紙を貼り、また糊をのばす作業の繰り返し。針の穴ほどの小さな穴でも開いていれば、「見回りの兵隊に怒られた」。重ね合わせた和紙は干して乾かすと、どこかへ運ばれていった。
「軍隊の施設などで使うのかと思ったが、兵器になるとは知らなかった」。学校では兵隊や教員から「何をしているか、校外で話すな」と言われていた。家に帰っても、家族に対して昼間は授業を受けてきたような顔をしていたという。
風船爆弾の気球の製造は、全国の和紙生産地を中心に展開された。県内では美濃和紙も使われ、武儀高等女学校(関高校の前身)の校内でも貼り合わせ作業が行われたほか、岐阜市柳津町の工場では、学徒動員による県内外の女学生たちが製造作業を担っていた。
学びの場を失うばかりか、多くの女学生が知らないうちに兵器製造に携わることになった事実に、翠さんは「当時は皆が10代半ばの子どもで、やれと言われたことを黙々とやるだけだった」と嘆く。和紙を貼る作業は3カ月ほどで終わったが、3年生に進級すると、戦闘機の風防の骨組み作業などにも従事。学校はもはや"軍需工場"の様相を呈し、授業がないまま夏に終戦を迎えた。
戦後、あの貼り合わせた和紙が風船爆弾の一部だったと知った。「私たちのような少女が造ったものでアメリカと戦っていたのか」。戦争に勝つと信じて過ごした日々を思い返し、ぼうぜんとしたという。戦後76年となり、同級生の多くが亡くなった。翠さんは「学校生活が当たり前にあることは平和で幸せなこと。二度とあのようなことはあってはならない」と、当時を知る仲間たちの思いを代弁するようにつぶやいた。
【風船爆弾】 水素を満たした気球に爆弾をつり下げた旧日本軍の兵器。上空約1万メートルに吹く時速200キロ余の偏西風に乗せて、米国本土へ飛ばした。1944年11月~45年4月初旬ごろにかけて約9千発が放球されたとされる。うち千発ほどがアメリカ大陸に到達。山火事を起こしたほか、北西部オレゴン州では民間人6人が死亡した。















