ソ連の参戦と太平洋戦争の終結とともに崩壊した中国東北部の満州国には、総延長1万キロ超、社員40万人を擁した南満州鉄道の鉄路が縦横に走っていた。馬場久孝さん(96)=岐阜市=は、その満鉄で駅員や車掌を務めた。思い描いた鉄道員の夢はついえ、戦後76年を経た今も「いったい、何をしに満州に行ったのか」という思いを抱く。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」◆ソ連との国境緊迫、銃剣向けられる/関東軍に召集され何度も白兵戦に
旧制岐阜第二中学(現在の加納高校)を経て1943年、満鉄に入社。長男ながら渡満を決意したのは、大陸への憧れと、大学に行かせてくれない父親への反発からだった。
入学した哈爾浜(はるぴん)鉄道学院では、同期生108人と共に半年間で規則や運転実務などをたたき込まれた。若手が召集でいなくなり、補充が急がれていた。
最初の配属先は、ソ連国境まで10キロもない城子溝駅。ハルビンから25時間かけてたどり着くと、灯火管制で真っ暗な構内でいきなり「誰かっ!」と銃剣を突きつけられた。緊迫する国境の雰囲気を肌で感じた。
業務も緊張の連続だった。車掌になり、採石場に続く引き込み線に入った時のこと。奥に進むと、山裾に20門以上の砲台が並んでいた。山の向こうはソ連領。先輩から「絶対に口外無用」とくぎを刺された。戦況悪化で、ひそかに南方に野砲や山砲が運ばれていくのも目にした。
城子溝駅周辺に町はなく、現地の家屋は10軒ほどあるだけ。冬は零下30度まで下がる。深夜に構内を巡視に歩くと、カンテラの先で無数のオオカミの目が不気味に光った。
辺境の地の勤務ながら、「自分たちが満鉄、満州国を動かしているんだと意気に燃えていた」。満天の星を見上げては、唱歌「ふるさと」を口ずさんだ。望郷の念に駆られながらも「志を果たし、駅長になってから帰ろうか」と、将来の夢を思い描いたという。
44年11月、19歳で関東軍に召集され、2年足らずの満鉄生活は終わる。復員後、「過去は振り返らない」と満州の思い出は封印してきたが、銀行定年後の85年、妻キミ子さん(91)と旅行したハルビンで一気によみがえる。
延々とトウモロコシ畑が続く鉄路の旅の途中、蒸気機関車の姿が目に飛び込んできた。満鉄時代から働く「パシロ」と「ミカロ」。現役で煙を吐く姿に涙があふれそうになった。以後、同僚や先輩を訪ねるようになり、満鉄社員や家族がたどった苦難を知る。
8月9日のソ連参戦。一緒に働いた城子溝駅員の家族を乗せた避難列車は、戦車の砲撃を受けていた。夕飯でギョーザを振る舞ってくれた小荷物主任の妻は走る貨車から落ちて行方不明に。一緒に寮の風呂に漬かった家族同様の人たちの多くが亡くなっていた。
捕虜になり、同僚が動かす汽車でシベリアへ向けて運ばれた元社員、中ソの指揮下で鉄道業務を続けるうち亡くなった人もいた。
「運よく生き延びた私が世話役になるのは、異郷の土になった方々へのせめてもの供養」。同期会をつくり、財団法人満鉄会の評議員にもなった。
「(唄)光を載せて 東亜の土に使ひす我(われ)ら 我らが使命-」。元社員が集まると、必ず満鉄の社歌を斉唱した。だが、1万人超の会員がいた満鉄会は2016年に解散。同僚からの年賀状も途絶えた。
馬場さんは召集先の陸軍部隊で何度も敵陣地に突撃する白兵戦を経験した。船舶兵の時には、傷病兵を乗せた船が潜水艦に沈められるのを目の当たりに。
戦後、毎夜のように戦場の記憶にうなされた。「戦争は殺し合いと壊し合い以外の何ものでもない」。小5のひ孫にも、こうした体験をいつか伝えようと考えている。
【南満州鉄道】 日露戦争で得た東清鉄道経営のため、1906年に設立された国策会社で、本社は大連に置かれた。初代総裁は後藤新平。中国東北部などで鉄道約1万2千キロを運営し、港湾、炭鉱、製鉄、ホテル経営も手掛けた。45年9月にソ連側が解体を宣告、社員は同年末で解雇された。鉄道は52年に中国への帰属が決まった。













