一番衆の上段3人目に「飛騨 内嶋又五郎」の名がある長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到・群書類従(国立公文書館所蔵)

 「飛州志」「斐太後風土記」によれば内ケ島氏は足利将軍家の奉公衆だった。

 白川郷入りは寬正年間(1460~66)とされるが、その後87(長享元)年9月12日の「常徳院江州御動座当時在陣衆着到」(群書類従)の一番衆に「飛騨 内嶋又五郎」の名がある。

 「新編白川村史上巻」によると、奉公衆は守護や地頭の監視役で、守護の権限の行使の枠から外され、活動していたという。

 又五郎は飛騨入りした為氏か子の雅氏か不明だが、岡村守彦さんは「飛騨中世史の研究」で「一世代を二、三十年と考えれば、為氏とするのが妥当であるが、この親子のことで明確なのは、雅氏の没年(1539年)だけであるため判定できない。雅氏だとしたらせいぜい十代の頃であろう」とし、それ以前の奉公衆の記録に内ケ島氏の名は見いだせないとする。

 本願寺第10世証如の日記「天文日記」(大系真宗史料文書記録編8)の1539(天文8)年11月14日に「内島事はその身奉公の人、此の方の所堪(勘)=管理=に随(したがわ)ざる人也」。天正大地震を記した本願寺貝塚移転時代の日記「貝塚御座所日記」(同14)の85(天正13)年11月29日にも「飛州の帰雲という在所は、内嶋と言う奉公衆ある所なり」とあり、幕府奉公衆であったことを記している。

 「新編白川村史上巻」は「鎌倉時代の中期ごろまで大炊御門家の所領であったと思われる白川郷が、約200年余りの沈黙を破って、ふたたび歴史の脚光を浴びるようになるのは、室町中期、内島氏が入ってきてからである」とし、いきさつは不明だが「白川郷が闕所地(知行人のいない土地)か、あるいは足利将軍家の御料所に変貌(ぼう)していた確率が高い」とする。

 岡村さんも三木氏のように実力で切り取ったのではなく「内島氏は奉公衆として(中略)恐らく将軍義政から正式に領地を賜(たまわ)っての入部であったろう」とする。

 だが、白川郷には先住の実力者である三島氏がいた。(森嶋哲也)