岐阜、長野県にまたがる北アルプスの奥穂高岳(3190メートル)の山頂直下にある「穂高岳山荘」は今月、創設から100周年を迎えた。創業者今田重太郎の孫で3代目主人の恵さん(38)=岐阜県高山市=は「登山者を守り、北アルプスの厳しさと美しさ、その両面を伝え続けていくことが役目」と次の100年を見据える。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」穂高岳山荘の幕開けは、大正登山ブーム真っただ中の1923年8月。山岳案内人をしていた重太郎が客を連れて槍・穂高連峰を縦走中、激しい雷雨に見舞われ「稜線における小屋の必要性を痛感した」(恵さん)ことだった。すぐに現地調査にとりかかり、奥穂高岳と涸沢岳間の鞍部(あんぶ)「白出(しらだし)のコル」を選んだ。
初めはテント1張分のスペースから、徐々にコルの地面をならして広げていった。自分たちで切り倒した木材を背負って上がり、20人ほどを収容できる小屋を建設。両県から許可の出た25年に「穂高小屋」の名前で営業を始めた。
「山小屋をやるからには、道づくりも義務」と登山道の整備にも力を入れた。毎年のようにスリップ事故が起きていた一枚岩を迂回(うかい)するルートを造ろうと、クマやカモシカが使う獣道に手を加えて「重太郎新道」を完成させた。
兄の孫であった英雄さん(80)=当時22歳=を養子に迎えた重太郎は73年、74歳で現役を引退した。主人を継いだ英雄さんは「穂高という神々しい場所にふさわしい山荘に」という思いを胸に、増築や石積み防風壁の整備、自然エネルギーの導入などを進め、75年には現在の規模まで拡大。最大で200人程度の受け入れが可能となった。
英雄さんに付いて4歳の頃から山荘へ上がっていた長女恵さんは大学を卒業後、山荘に入社した。3年間父たちから仕事を教わり、2011年に主人に就任した。26歳だった。
翌12年の5月、雪に覆われた涸沢岳で男女6人が遭難する事故が起きた。県警山岳警備隊や従業員が救助して山荘へと運び込み、恵さんも看病に当たった。布団や従業員の衣服をかき集め、必死の思いで温めたという。1人は低体温症で亡くなってしまったが、5人は回復し翌日ヘリで山を下りた。「恐ろしい自然の力と、小屋を建てることで命を守れる人間の力、両方を強く感じた」と振り返る恵さん。「自分はそういう場所で仕事をするんだ」と、経営者としての覚悟を持った出来事だった。
就任から12年、夫の公基さん(39)と共に、得意のデジタル分野の知識を生かして、ソフト面の充実を進めてきた。他の山小屋に先駆けたクレジットカード決済や、ウェブ予約システムなどの導入は「全て登山者の安心安全のため」。恵さんは真っすぐなまなざしで語る。「登山者を迎え、元気になってまた山に出てもらう。やるべきことは、100年前に重太郎が小屋を建てることを決めたあの日から何も変わりません」













