加茂郡で初めて国史跡に指定された夕田茶臼山古墳=10月27日、加茂郡富加町(本社契約ヘリから)
飛騨市の古川祭をテーマにした演舞を披露する「半布里」の若者たち=10月、美濃加茂市山之上町、ぎふ清流里山公園
津保川産天然鮎の塩焼きなど秋の恵みが振る舞われた「とみか町民まつり」=加茂郡富加町、町役場駐車場

 濃尾平野の最北端に位置する岐阜県加茂郡富加町。国内で人口減少が進む中、この10年間で町の人口は増加傾向にある。住みやすさと小回りの利いた手厚い支援で、子育て世帯に選ばれている。およそ4キロメートル四方のコンパクトな町ながら、51基の古墳が残る美濃地方有数の古墳密集地で、人が住んでいた痕跡は弥生時代の終わりにまでさかのぼる。その古墳のうち夕田地区の夕田墳墓群(ゆうだふんぼぐん)が11月、加茂郡で初めて国史跡へ指定され、にわかに注目が集まっている。

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 墳墓群は3基からなり、夕田茶臼山(ちゃうすやま)古墳と蓮野(はすの)1号墳の2基が国史跡の対象。国の古墳時代の始まりを考える上で、重要な遺跡であることが評価された。

 中でも夕田茶臼山古墳は3世紀中頃に築造された前方後円墳で、全国的にも古いことが価値付けされた。1960年に町史跡に指定されたものの、町教育委員会の島田崇正町文化財専門官(49)が、99年の入庁当時に現地を視察したところ「看板もなく地元も古墳の存在を知らず、高さ2メートルを超えるササで覆われて全容が見えない状態だった」と振り返る。幸い古墳の保存状態は良く、開発されることなく歴史的景観も保っていた。

 その後の調査で、3基は年代順に、蓮野1号墳(2世紀後葉)、杉洞1号墳(2世紀末~3世紀初頭)、夕田茶臼山古墳(3世紀中頃)と並び、弥生時代終末期から古墳時代の始まりにかけて「一代一墳」で連続して築造された前方後円形の首長墓だったことが判明した。奈良県桜井市の纒向(まきむく)古墳群しか例がない全国的に珍しい事例として、国史跡へとこぎ着けた。

 長年の調査で地元の認知も上がった。戦国時代、織田信長が東美濃攻略の際、直線距離で約430メートル東の堂洞城を攻める時に陣を張り指揮を執った場所も、夕田茶臼山古墳とみられる。

 奈良県の正倉院に残る奈良時代の日本最古の戸籍「半布里(はにゅうり)戸籍」(702年)も、住みやすさを示す証拠だろう。54戸と1119人の名前や性別などが記されている半布里戸籍は、富加町辺りを指すといわれ、羽生(はにゅう)として地名は今も残る。

 「水害が少なく、程よい平地と里山がある」と、島田さんは富加町の住みよい条件を語る。里山は、エネルギーとなる薪(まき)の供給地として重要といい「流れの穏やかな長良川支流が2本あり温暖な気候で作物も育ち、安定した生活を営める条件がそろう」と説明する。

 11月19日、町役場一帯で3年ぶりに開催された「第43回とみか町民まつり」では、津保川漁業協同組合富加支部が、投網で捕った津保川産の落ち鮎の塩焼き300匹を販売、鮎雑炊を無料で千食分振る舞い、富加の自然の恵みを参加者が味わった。

 今年、富加町を熱くした朗報がもう一つある。町を拠点に活動する鳴子踊りチーム「半布里(はぶり)」が、名古屋市やオンラインで開催された踊りの祭典「第24回にっぽんど真ん中祭り(どまつり)」で、市街地開催の部門で最優秀賞の「どまつり大賞」を初めて受賞した。

 半布里は2000年に結成し、中濃を中心に踊り子約100人で構成する。「富加の町から元気を発信」を合言葉に活動する世代を超えた町民グループだったが、近年はどまつりの決勝に残る強豪となった。主力は岐阜大や岐阜聖徳学園大などの20代の大学生で、「半布里で踊りたい」と全国から若者が集い、町内の双葉中学校を練習拠点に毎週末の夜に稽古に励む。活動が縁で結婚し、町内外に移住した踊り子も多い。「22年間で40組ぐらいいるのでは」と、結成メンバー5人のうちの1人小島一彦会長(62)=同町羽生=は話す。

 町も活動を後押しし、今年3年ぶりに美濃加茂市のぎふ清流里山公園で開かれた半布里有志らによる鳴子踊りの祭典「おんさいEXPO」を全面協力。大賞受賞の演舞を地元でお披露目し、来園者は8千人を超えるほどにぎわった。小さいながらも奮闘する富加町の存在を全国に示している。