ダム建設で水没した三木秀綱最期の地(右奥)。県道沿いに記念碑(右手前)と由来碑が建つ=長野県松本市奈川

 本願寺が一時、貝塚に移転していた時期の記録「貝塚御座所日記」の1585(天正13)年に「飛騨国三木御成敗。秀綱兄弟二人生害。入道自綱は存命〈九月也〉」とある。自綱は京都に逃れたが、秀綱、季綱の息子2人は自害したと言う。

 兄弟は松倉落城後、信州(長野県)へ落ち延びようとしたと多くの軍記物が記す。「飛騨国治乱記」には松倉城に火の手が上がると「秀綱驚き、こはいかにとあきれしところに、敵はときの声を挙げ、山を響かしければ、もはやかなうまじ、思い思いに落ち行く。命あらば重ねて恨みを晴らさんと、たくわえおきし金子を持たせ、夜にまぎれ高原の方へ落ち行き、信州へ抜きゆかれしが…」とある。...