東日本大震災から15年 避難所での記憶と教訓 

                                    尾西食品株式会社(本社:東京都港区 代表取締役社長市川伸介)は、防災食・備蓄のリーディングカンパニーとして、 ”アルファ米”をはじめとする非常食を製造・販売。 専門家のアドバイス、被災者の声を通して日常の防災意識を高める活動を進め、2021年3月より、公式サイトにて防災コラムの発信をしております。東日本大震災の発生から15年。震災伝承交流施設「MEET門脇」がある地域には当時約1,800世帯・4,500名が暮らしていましたが、想定を大きく超える津波が広範囲を襲い、約500名が犠牲となりました。今回はその「MEET門脇」にて、宮城県石巻市で避難所生活を経験し現在は語り部として活動する浅野仁美さん(画像左/震災語り部・防災学習ゲストスピーカー)・髙橋正子さん(画像右/公益社団法人3.11メモリアルネットワーク)に当時の状況を伺いました。

 


 

浅野仁美さん

――避難所運営への参加とリーダー着任

震災直後、学校の非常電源を使った放送でボランティア募集の呼びかけがあり、娘が通っていた鹿妻小学校に協力したいという思いで参加しました。当初は先生方や学校の保護者、地域住民が協力して運営にあたっていましたが、時間が経つにつれ避難所から退去する人が増え、学校との連携や運営の方法、これまでの様子を理解している人が減少。今抜けてしまえば避難所運営が立ちゆかないと感じ、リーダーとして責任を担う決意をしました。

 

――避難所で直面した最大の課題

断水だけでなく汚水槽や下水管の破損によりトイレが正常に使えないことでした。学校のプールの水を使って流していましたが、詰まったり逆流したりする中だましだまし使用せざるを得ませんでした。

やがて仮設トイレが校庭に設置され(最終的には合計36基)問題は解決したように思えましたが、避難者だけでなくボランティアの方や地域の方など1日延べ5,000人が利用するため汚れ方は激しく、清掃と衛生管理が避難者の大きな負担となりました。避難者同士で班を作り、ローテーションでトイレの清掃を行いました。避難所は「食事や休息の場所」だけでなく、避難者全員で生活を維持する場所であることを、身をもって体験することになりました。

 

――食事支援の難しさ 避難者と在宅避難者の公平性

自衛隊からヘリで届いたおにぎりは大きな救いでしたが、炊き出しボランティアの受け入れは困難を極めました。炊き出しの匂いが地域に広がったことで「なぜ避難者だけが食べるのか」という批判も受けトラブルへ発展し、夜遅くまで対応することになりました。持参した設備が少なく一度に数十食しか作れないため、避難者約1,700人、在宅避難者約3,600人へは到底行き渡らないのです。

この経験から、話し合いを経て十分な量を提供できるか数を確認し、少ない場合は避難所では受け入れず地域へ橋渡しすることを決断しました。食の提供は非常に難しい問題であることを痛感しました。

 

――やってよかった取り組みと今後への教訓

最も効果があったのは、体育館全面に1,000枚の畳を敷き詰めたことでした。当初は津波から逃げてきたまま土足だったので畳を敷くまではヘドロの粉塵による咳患者が多発し室内でもマスクの着用を指導されていました。しかし畳導入後は空気環境が劇的に改善し、咳をする人がほとんどいなくなり、1週間後ぐらいに室内でマスク外せるようになりました。畳敷き作業は避難者の皆さんで協力し、心身両面の負担軽減につながりました。

災害時は想定外の出来事への対応が一番難しく、また防災が変化する中で自分の経験が今も通用するとは限らないと感じています。地域や行政、国と連携し、今の避難所に必要なものを考え、適正な想定とさらにその先まで備えることが重要です。防災は大災害時の避難行動だけでなく、災害は自分にも起こり得ることとして考えることで行動や意識が変わると思います。災難はいつ何が起こるかわからないというイメージを持ち、自分事として捉えて考えてみてほしいです。

髙橋正子さん

――発災時の避難状況

震災当時、非常持出袋は自宅に準備していたものの、働いていた内陸部から戻る途中で通行止めとなり、自宅に入れませんでした。そのため何も持たず、着ていたものと手に持っていたものだけで避難生活を始めることになりました。非常持出袋は家に置いてあっても持ち出せるとは限らず、車や職場など複数の場所に備蓄しておくことの大切さを強く感じました。

 

――避難所の環境について

私が住んでいたところは多くの子どもが犠牲になった大川小学校の学区内でした。その日は車中で過ごし震災翌日に内陸部の避難所に避難しましたが、子どもたちの安否が分からない中捜索を続けるご家族と共に生活していたため、避難所全体が重い雰囲気に包まれていました。石巻の公共施設で、約1,200人が避難していましたが、地域の顔見知り同士で集まったのではなく、河北・北上などさまざまな地域から来た見知らぬ人が多く、行政職員が避難所運営を指揮していました。発災直後は自宅に戻れない人や停電で困った人が中心でしたが、3日目頃から津波から命からがら逃れてきた人や輸送されてきた人が急増しました。

 

――食料・衛生・情報収集に関する実体験

避難所には最低限の電力と炊事室があり、周囲の農家の協力で米を炊くことができました。しかし徒歩5分の別の避難所は何もない状態で、その差が大きかったため食料を譲ったりしていました。一方で、夫は会社の避難で最初に配られたのがえびせん一本、次におせんべい一枚といった厳しい状況でした。

ガスが使えず、流水で手を洗えなかったため衛生環境は非常に悪く、病気にもなってしまいました。手を汚さずに作れる保存食や、お湯・水を注ぐだけで食べられるものはすごく大事だと感じました。

情報はホワイトボードを使って共有し、息子、義理の母、主人の無事をそこに書き込んだところ、誰かがネットで配信してくれており、遠くの親族にも無事が伝わりました。三陸自動車道が使えたため物資は比較的早く届きましたが量は限られ、1日2回の配給を、自分は我慢をして食べ盛りの息子に食べさせるなどして過ごしていました。

語り部として参加する小学校の防災学習では、一列に並んで非常食を一口ずつ試食してもらい、当時どれだけ厳しい環境だったかを伝えています。感謝の気持ちや列を乱さない礼儀など、学校では教わらないことも教えていくことが防災だと思っています。

 

――備蓄の重要性と“生き延びるための防災”について

災害では津波だけでなく、物流が止まればコンビニにもスーパーにも食料が並ばなくなり、人々が一斉に買いに走るため入手は困難になります。だからこそ、普段から食べ慣れているものや、すぐにエネルギーになる食料を備えておくことが、混乱の中で心身を支える大きな助けになると感じました。

必ずしも家があるとは限らず、避難所に入れるとも限りません。だからこそ「目の前の命を守る備え」だけでなく、「避難後の生活を生き延びる備え」が必要です。場所に依存しない備蓄と、経験を伝える教育を通じて、どんな状況でも自分の命をつなぐ力を身につけることが、防災において大切であると強く思っています。

 

3.11メモリアルネットワーク】

東日本大震災の経験を基盤に、教訓を伝える個人・団体・施設が地域や世代を超えてつながり、過去と向き合い未来へ備える意識を国内外で共有しながら、「災害で命が失われない社会」「被災者や被災地域の苦難を軽減し、再生に向かうことのできる社会の実現」を目指して活動しています。震災伝承と防災・減災の「連携」「企画」「育成」を三本柱に掲げ、岩手・宮城・福島の3県を中心に取り組んでいます。

防災コラムWEBはこちら https://www.onisifoods.co.jp/column/detail.html?no=30

尾西食品株式会社

・事業内容: 長期保存食の製造と販売

・所 在 地: 〒108-0073 東京都港区芝浦3-9-1 芝浦ルネサイトタワー12階

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