岐阜メモリアルセンター付近の河原から望む長良川と金華山。道三の死は斎藤家落日の起点となり、美濃は織田信長の天下布武の拠点へと転換していく=岐阜市早田
住宅街の一角にある「道三塚」。墓碑には近年、市民の寄付によって覆屋(おおいや)が設置された=同市長良福光
岐阜城天守閣からの眺め。眼下の岐阜メモリアルセンター付近で「長良川の戦い」が繰り広げられた
斎藤道三公塚と書かれた墓碑が立つ「道三塚」
長良川の戦いの激戦地となったとみられる「中の渡し」付近。現在は岐阜メモリアルセンターになっている

 「国盗(と)り」で知られる戦国武将斎藤道三。その遺体を弔ったと伝わる「道三塚」が、岐阜市長良福光の住宅街にある。「マムシ」と恐れられたが、その最期は戦での敗死。それも息子の義龍に討ち取られた。弘治2(1556)年4月、美濃を二分した父子決戦「長良川の戦い」だ。

 二人は、家督継承の頃から不仲に。戦の前年の11月、義龍が父の寵愛(ちょうあい)を受ける弟たちを殺害して亀裂が決定的になった。道三は、仰天して稲葉山城(岐阜城)下に火を放ち、大桑(おおが)城(山県市)方面へ退いたという。

 「信長公記」などによると、年が明けて4月18日、道三は軍勢を率いて長良川を見下ろす鶴山に布陣。同20日、義龍は稲葉山(金華山)から麓の河原へ陣を進めると、道三も対岸に進軍した。

 義龍側には稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の「西美濃三人衆」をはじめ有力国衆ら約1万余が集結。対する道三側はわずか2千ほどだった。娘婿の織田信長も道三に加勢するため尾張から出陣したが、義龍軍に行く手を阻まれ決戦に間に合わなかった。

 激戦地となったのは「中の渡し」付近の長良川。当時の川の流れは今よりも北側で、現在の岐阜メモリアルセンター付近とみられる。序盤は道三軍が奮戦したが、徐々に数で押され総崩れ。道三は、2、3人がかりで討ち取られた。首は長良川にさらされ、川のほとりに葬られたという。

 同センター北側の住宅街。小さな塚の上に「斎藤道三公塚」と記された墓碑が立つ。洪水によって場所を変えながら、時代を超えて大切に祀(まつ)られてきた。近くの長良川右岸を歩くと、川面の先に金華山が雄大にそびえる。義龍と対峙(たいじ)した道三の目にも似たような光景が映っていたことだろう。国盗りに懸けた激動の人生を戦場で終えるという、まるで物語の筋書きのような結末。それは、人望を失ったと悟った道三が自ら望んだ散り方だったのか、それとも息子をにらみつけながらの無念の死だったのか。川のせせらぎを聞きながら、最期の姿に想像を巡らせた。

【勝負の分岐点】信長の援軍阻まれ暗転

 劣勢を強いられた斎藤道三。その背景や勝敗の分かれ目について、岐阜市文化財保護課の内堀信雄さんに解説してもらった。

 道三は戦の天才だが、ワンマンで行政力は低かった。一方、義龍は父のような派手さはないが、行政役人としてはとても有能だった。美濃を統治していく段階になると、部下としては義龍に付いていこうと考える者が多かった。

 長良川の戦いに関して「道三は勝つつもりがなく、負け戦を覚悟で臨んだ」という意見も多い。しかし、道三の生きざまから考えると、私は疑問。彼はどんな困難な戦いでも、勝つための戦略をひねり出してきた。この戦いも、必ず勝利へのシナリオを描いていたはずだ。

 ならばどこで誤算が生じたのか。やはり織田信長の援軍が、義龍軍に阻まれて来られなかったことが大きかったのではないか。信長軍にもきっちり手を打った義龍の采配ぶりに、道三も驚いたことだろう。義龍の能力を見くびっていた部分が敗因とも言える。

 戦場での非業の死は、まるで乱世を象徴するよう。それゆえ「斎藤道三」は、現代に至るまで人々の記憶に残り、多くの人の心をとらえてきた。