金華山の麓、岐阜公園(岐阜市大宮町)に立つ板垣退助像。明治15(1882)年4月6日、自由民権運動を推進した板垣は、この地で暴漢に襲われ、短刀で7カ所刺された(岐阜遭難事件)。その時発した言葉は「名言」として今も語り継がれている。2022年は事件から140年。近代日本の黎明(れいめい)期、新たな政治システム構築を目指した板垣の功績は、“岐阜発の名言”誕生の舞台裏は、言論の自由は―。板垣研究を進める中元崇智中京大教授(43)に、岐阜新聞社の矢島薫社長が聞いた。
矢島 板垣退助は岐阜で刺された際に「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残し、自由民権運動の象徴となった。本当に本人の言葉か。
中元 あの名言そのものではないが、それに近い発言があったのは確かだろう。ただ、事件について報じた当時の複数の新聞や報告書を読み解くと、どんな場面でどのように言ったかについては表記が分かれている。
一つは、直後に犯人をにらみつけ「板垣は死するとも自由の精神は死なん」。もう一つは、手当てに運ばれる途中、板垣が死んでしまうかもしれないと泣く取り巻きに向けて「みな嘆きたまうな。板垣は死すとも自由は滅びませぬぞ」。さらには、その両方の場面でそれぞれ言ったとされる記事もある。
明治末期に編さんされた「自由党史」には、暴漢を指さして「板垣死すとも自由は死せず」と、現在に伝わるかたちで登場する。時を経て少しずつ脚色され、格好いい名言に整えられていったようだ。
矢島 何カ所も刺された状態で、とっさに言葉が出るものだろうか。
中元 日頃から「死を覚悟して人民の権利や自由を守る」という強い信念があったからこそ、自分が一番ピンチの時にすっと出てきたのだろう。それを裏付けるように、事件の前年の大阪、1年半前の甲府での演説でも「自分は権利自由のために命を懸ける」という趣旨の発言をしている。
◆土佐人気質「いごっそう」
矢島 板垣の人物像や自由民権運動を推進するようになったきっかけは。
中元 幕末の土佐藩(高知)生まれで、まさに土佐人の気質を表す「いごっそう」(一徹、頑固者)だった。戊辰(ぼしん)戦争では有能な軍人として活躍し、官軍を勝利に導いた。
自由民権運動への転機の一つは、戊辰で会津藩の姿を見たことだといわれている。戦っていたのは武士だけで「もし農民や町民も一丸で徹底抗戦していたら自分たちは負けていたかもしれない。会津の敗因は武士と庶民の心が一体になっていないことだ」と感じたとされる。
日頃、武士から差別されている庶民が力を貸すわけがない。だからこそ「国の一大事には皆が団結する、誰もが協力し合える四民平等の国家にしなければならない」と、誓ったという。
ただ、これはあまりにも良くできたストーリーで、後付けと考えられる。
◆初の政党内閣 道半ばの退陣
矢島 岐阜遭難事件で負傷したものの、その後も政治舞台で活躍した。板垣の自由民権運動が目指した最終ゴールは何だったのか。
中元 薩摩や長州出身者を中心とする藩閥政治に対して、国会を開いて広く人々の意見を反映させる政治を築くこと。そのために愛国公党や自由党などを立ち上げ「憲法に基づく立憲政治」の確立に尽力し続けた。
明治23(1890)年に初めての国会(帝国議会)が開設され、その8年後には板垣内務大臣と大隈重信首相による日本初の政党内閣「隈板(わいはん)内閣」ができた。少なくとも最初に目指した目標が達成できたのは間違いない。ただ、この内閣は半年足らずでつぶれてしまい、理想とした政治が完成したかというと、残念ながら「道半ばだった」と言わざるを得ない。
矢島 近代日本の政治基盤構築のために尽力した板垣。岐阜公園には銅像が建てられ、今もその功績を伝えている。
中元 岐阜公園の銅像は、板垣が亡くなる1年前の大正7(1918)年に建立された。除幕式に出席した本人が、銅像の前で演説している写真も残っている。この銅像は、戦争中に供出されてしまい、現在の板垣像は昭和25(1950)年に再建されたものだ。
◆反骨精神は新聞人の誇り
矢島 自由民権運動とともに、明治に入って新聞や出版も勃興。板垣は日本に言論の自由を根付かせる「時代の転換」に貢献した。
中元 新聞は西洋から新しく入ってきたメディア。明治初期には今もある大手紙や岐阜日日新聞(現岐阜新聞)も創刊され、人々に情報や政治的な主張を伝える役割を担った。
江戸期になかった「新聞」の登場によって、人々は自分たちの意見を反映し、時には政府を批判する機会を得た。ところが、新聞の文化が定着すると、明治政府の批判を繰り広げる新聞に対しては、発刊禁止などさまざまな規制がかかるようになった。
ただ、新聞もやられっぱなしではなかった。権力や弾圧に対しては「言葉やユーモアで対抗する」という土壌が生まれた。そういった「反骨精神」は、現代につながる新聞人の誇りを感じさせてくれる。













