1916年、南カリフォルニア大で学んでいた時に撮影された大野寛正(前列左)=大野美夏さん提供

◆国際人、時代に翻弄

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 「変人」。第2次世界大戦の頃、そう言われていた男性が揖斐郡揖斐川町にいた。「アメリカは強い」と言って逮捕され、家族には迷惑がられた。実はハーバード大でピアノを学ぶなど、戦前の米国で約20年過ごした国際人だった。「戦争がなければ、時代が違えばもっと評価されたはずなのに」。惜しむ声が上がる。

 大柄な米国人の男女の中、スーツ姿の小柄な日本人が腕を組んでいる。大野寛正が1916年、南カリフォルニア大音楽科で学んでいた頃の写真だ。「西洋人に負けない、という意地が感じられる」と寛正の弟の孫、美夏さん(53)が話す。

 寛正は1889(明治22)年、同町岡で生まれた。岐阜農林学校(現在の岐阜農林高校)卒業後、県庁に就職するが1年で辞め、1907年に渡米。米国人の家庭で働いていたとき、ピアノに出会った。

 ピアノに触ったことも音楽の勉強をしたこともなかった。それが「過去の経験と全く異なった趣味で鮮やかな成功を思い立ち」(寛正が残した文章)、ピアノで生きていくことを決めた。

 ポートランドの私塾を経て、南カリフォルニア大、ハーバード大、ニューヨークの学校で音楽を学び、18年、ロサンゼルスを拠点に作曲家になった。寛正が作曲した曲の楽譜は米国で販売された。広告が載った同年のロサンゼルスの地元紙や楽譜が実家に残っている。

 米国で音楽家としての人生をゼロから積み上げたが、やがて時代にのまれる。25年8月、寛正は帰国した。理由ははっきりしないが、前年に米国は日本からの移民を禁止する法律を制定。日本人の居場所は減っていた。

 揖斐川町の実家に戻った寛正は、米国から持ち帰ったピアノで音楽を教える研究所を開いた。

 古里にはなじめなかった。寛正を直接知る人は「断トツに変な人だった」。日米が開戦すると「米国は強い」「自動車がそこらじゅうにある」「日本は負ける」と平気で発言。自分自身の目で見た事実だったが、周囲は理解できず、警察に捕まった。戦後は音楽から離れ、旧大蔵省や進駐軍岐阜キャンプの通訳、教師、証券会社の外務員などをし、63年10月に74歳で亡くなった。生涯独身だった。

 美夏さんは「尊敬の念しか湧かない」という。寛正は家族の中でも語られることはなかった。「すごい人。でも時代に合わなかった」。

 世界を目指した寛正の精神を受け継いだのか、美夏さんは30年ほど前からブラジルに住む。寛正が実家に残した日記をブラジルに持って行き、時々目を通すという。「戦争がなければアメリカで多くの作品を発表し、自分のやりたいこと、言いたいことを言っていただろう。間違いなくもっと幸せだったはず」。時代に翻弄(ほんろう)された先人を、美夏さんはそう惜しむ。