戊辰戦争で活躍し、明治新政府の幹部となった板垣退助。その手で切り開いた新時代は結局、薩長出身の一部の有力者による専制政治だった。やがて、そんな政府に対して、刀ではなく「言葉」を武器にした新たな戦いに挑んでいく。

 板垣退助(国立国会図書館ウェブサイトより)

 「国民は政治に参加する権利がある。国会を開いて民意を反映した政治を行うべき」。1874(明治7)年に有志らによって明治政府に提出された「民撰議院設立建白書」には、前年に政府を去った板垣も名前を連ねる。その後、故郷の高知で政治結社「立志社」を設立した。

 そもそも「自由と権利」への目覚めは幕末。戊辰戦争での会津藩の姿だった。板垣百回忌を記念して編さんされた伝記「板垣精神」によると、天下の雄藩とうたわれた会津との戦いに、死を覚悟して臨んだ板垣が見た光景は「一般人民、我先にと四方へ逃げ去り」。戦っていたのは武士だけ、という現状に、「国の一大事には誰もが団結して立ち向かうことができなければその国は滅びる」と実感したという。土佐史談会副会長で、高知市立自由民権記念館発行の「板垣退助伝記資料集」を編集する公文豪さんは「新時代は国民一人一人が主権者であり、この国の主人公であるべき。そういう国民の意識を高めていかなければならないと強く認識したことが(自由民権運動への)出発点だった」と解説する。

 

 そんな板垣の理想を加速させる大きな転換点になったのは、1877(明治10)年の西南戦争。西郷隆盛の挙兵を受け、政府も市民も板垣の動向に注視した。なぜなら板垣は、西郷らとともに征韓論を唱えて参議を辞職(明治六年の政変)、藩閥政府への批判を強めていたからだ。

 高知で士族救済活動をしていた立志社。西南戦争が起こると、一部には挙兵を模索する動きもあった。板垣研究を進める中元崇智中京大教授は「板垣自身も西郷に呼応するか揺れた。だが、『西郷軍に勝ち目はない』と戦況を分析して言論運動に切り替えた。勝てない戦はしないというある意味で軍人的な判断だった」と語る。

明治6年10月24日に提出された板垣退助の参議辞表(国立公文書館デジタルアーカイブより)

 公文さんは「立志社は西南戦争のさなかに立志社建白書を提出するなど、言論戦を展開し始めている。板垣は早い段階で、もう武力の時代ではなく、国民に権利を与えることで強い国をつくっていくという方向性を示していた」と指摘。政府側でも西郷側でもなく、言論戦で国会開設を模索する“第3の道”を選択したことは「その後の自由民権運動が大きく加速するターニングポイントになる決断だった」と話す。

 武力という“刀”を完全に捨て去り、言葉の力による自由民権運動に本格的に歩み始めた板垣は、1881(明治14)年に「自由党」を結成し、運命の地「岐阜」へと導かれる。


 【明治六年の政変】 武力で朝鮮を開国させようとする「征韓論」を主張する西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らと、内政を優先する大久保利通らが激しく対立。西郷、板垣をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞した。その後の自由民権運動の広がりや、西南戦争など不平士族の反政府反乱のきっかけにもなった。
 

「自由」は元々「わがまま」 西洋化で現在の意味に

 明治期、自由民権運動の高まりとともに大流行した「自由」という言葉。現代でも「言論の自由」「表現の自由」、新型コロナウイルス禍で議論を呼んだ「行動の自由」など、さまざまな場面で使われている。そもそも明治以前から存在していた言葉なのか? その定義とは?。実は「自由」は古くから使われていたが、明治の西洋化でその意味が変化していた。

 最近の自由という言葉について「欲しいままという用途に戻ってきている気がする。言語は民族の心であり魂。正しく後世に伝わってほしい」と語る工藤力男さん=岐阜新聞本社

 日本語学者で元岐阜大教授の工藤力男さん(83)=岐阜市長良=によると、自由という言葉は「奈良時代にはすでに使われていた」という。日本書紀や続日本紀の中で「権力と幸福を欲しいまま、意のままにする」という意味で登場する。工藤さんは「中国の漢語の用例をそのまま借りたもので『我が意に欲するまま』『わがまま』というような、どちらかというとネガティブな意味で用いられた」と語る。

 鎌倉期以降には、仏教者や宣教師たちの書物に「拘束されない」などを意味する「自由解脱」といった用例も見られるものの、「基本的には奈良期から意味が変わらないままだった」と分析する。

 広辞苑には「自在/責任をもって何かをすることに障害がないこと/個人の権利が侵されないこと」などとある

 江戸後期から幕末ごろになると、オランダ語や英語の語訳が進む。freedom、libertyに対して「従属しない、自由」という使い方が登場。さらに明治に入り、人民の権利としての「自由ノ権」という表現も見られるようになる。工藤さんは「抽象的な概念として使われるようになった。日本人の思考に、『西洋の自由』という思想が反映されたことを物語っている」とする。

 明治の文明開化で、日本人には欧米の考え方が魅力的に感じられただろう。自由は「わがまま」から「人々の権利」になった。新たに定着した「自由」という言葉が、自由民権運動を後押ししていった。