高校野球は選手が主役であるのは言うまでもない。だが、その名選手たちを育成し、大舞台で躍動させる名指導者の存在は高校野球に欠かせず、高校野球は指導者で決まると言っても過言ではない。それぞれ独自の人材育成法や組織づくり、決断力、実行力はあらゆる世界での範とすべき示唆にあふれている。岐阜県高校野球史を彩った名将ならではの生きざまや考え方を「ぎふ高校野球・名将流儀」と題し、インタビューで迫る。
トップバッターは日本のアマチュア球界の第一線にあり続け、昨夏、母校県岐阜商の監督を勇退したが、現在、古巣の枚方ボーイズに戻って指導し、野球に情熱を燃やし続けている鍛治舎巧監督(73)=大阪府枚方市=に独自の指導者論、高校野球について聞いた。第1回は「名将の歩み」。
―高校、大学、社会人と常にトッププレーヤーだった監督が指導者を志したのはいつですか。
鍛治舎 高校の時は将来、指導者になろうとは思っていなかった。大学の時に選択肢の一つとして、高校の指導者になりたい思いもあり、教育実習を除いて、教職の単位を全て取った。
大学生の夏休みの練習がオフの期間に高校野球の指導に行った縁で、卒業したら監督として来てほしいという話がいくつかあったのも教職課程を取るきっかけになった。
大学4年の6月に高校の指導者になるか、社会人野球に進んで野球と仕事を両立させようか、プロ野球にいって頂点を極めようか、実は三つの選択肢の中で、どうしたものか相当悩んだ。
―大学卒で高校監督の可能性もあったんですね。
鍛治舎 自分では大学3年まではプロに行くものだと思い込んでいた。大学4年生になり、実際に広島と近鉄(現オリックス)、太平洋(現西武)の3球団は「1位は高校3年の江川卓(元巨人)ではなく、君」というお話を内々いただいていた。...