川本勇さんインタビュー2回目は、教員初任地の多治見高校でスタートした監督人生。選手の特性を見極め、個々に最も適した指導を徹底する川本さん独自の選手育成法について聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

大垣南高監督時代に岐阜大会で試合後、選手に語り掛ける川本勇さん=長良川球場

 ―岐阜県で教員になり、初任地は。

 川本 石川県と岐阜県で採用試験を受けた。石川県は国体(国民スポーツ大会)開催を控え、いろんな競技の選手がたくさん教員で採用されたのもあって、岐阜県だけで採用され、多治見高校に赴任した。

 女子校から共学になって5年目くらいだったと思う。前任の監督は野球経験者ではなかったので、行ったらすぐ「やってくれ」と言われて、監督になった。

 グラウンドが猫の額のように狭いところで、センターが60メートルくらいしかなく、坂の上のひし形の土地だった。近くに、当時は夏の岐阜大会も使用していた多治見市営球場があって、いつもリヤカーに道具を載せて、引っ張っていって練習した。

 最初の夏は初戦で負けたが、新チームになって秋の県大会で一つ勝った。今は秋の県大会初戦敗退チームのみが県下選抜大会に出場するが、当時は、県大会が上位4校による決勝リーグ戦を行い、それ以外のチームがすべて予選を行って、県下選抜に出場した。決勝まで進み、岐阜南(現岐阜聖徳)に負けたが、準優勝した。

 選手たちもすごい自信になったので、夏も頑張れるなと思っていたら、岐阜大会は一つ勝って、梶浦博先生が監督をしていた岐阜第一に2―3で惜敗した。

 川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。

 ―どんな指導をされたのですか。

 川本 当時の選手は能力も高く、練習もすごくやった。自分が行った時は、いい選手はいるのに、グラウンドが狭かったり、専門の指導者がいなかったりで、練習の仕方が...