夏の岐阜大会で岐阜総合を2003、04年と2年連続準優勝。同校で部長だった07年と、母校大垣南監督に転任直後の08年、2校にまたぐ2年連続準優勝と計4度、決勝の舞台に導いた川本勇さん(62)。悲願の甲子園出場は果たせなかったが、現在も母校大垣南の副部長として高校野球に情熱を燃やす川本さんは、常に工夫を重ねながら、個々の選手の限りない可能性を引き延ばす指導に徹してきた。第1回は川本さんの野球人としての歩み、原点について聞いた。

岐阜総合、母校の大垣南で岐阜大会4度準優勝に導いた川本勇さん=大垣南高

 ―野球との出会いは

 川本 もの心ついた時から野球で遊んでいた。子供のころ、プロ野球では長嶋茂雄さんや王貞治さんの全盛期で、あこがれた。クリスマスプレゼントで枕元にバットやグラブが置いてあった時、すごくうれしかったのを思い出す。

 国鉄(現JR)に勤めていた父親の仕事の関係で金沢市で生まれ、名古屋市を経て、小学校2年生の時に、静岡市に引っ越した。当時、そこに野球チームがなかったので、3年生になってソフトボールのチームに入った。すぐに5年生以下のBチームでショートとして試合に出させてもらった。

 6年生でキャプテンになり、静岡市の大会で準優勝したのが最高。今思えば、その後の指導者としての人生で、決勝にはいくが、準優勝という歴史はこの時に始まったのかなと思う。

 中学は1学年13クラスあるようなマンモス校の大里中。法政大で江川卓投手(元巨人)とバッテリーだった元ロッテの袴田英利さんはじめ、出身者にプロ野球選手が何人もいるような名門野球部だった。

 川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。

 部員は100人くらいいたので、1年生は球拾いがこぼしたボールをさらに球拾いするような感じだった。学校近くの安倍川の河川敷でも練習した。今では考えられないが、川に落ちたボールを...