福島秀一監督インタビュー第4回は、日本最古の野球部と言われ、1949年選手権準優勝の歴史も誇る母校を再建。2001年に近年40年間で唯一の岐阜大会ベスト4に導いた秘けつを聞いた。

母校岐阜高校監督時代に、同校を最近40年間で唯一の岐阜大会ベスト4に導いた福島秀一監督
 福島秀一(ふくしま・ひでかず) 1963年、羽島郡笠松町生まれ。父親の影響で幼少期から野球に取り組む。岐阜高校では1年秋から主軸。3年時は4番、センター。中京大でも1年秋からレギュラーで、2年から主軸。4年の春秋、愛知六大学野球ベストナイン。4年秋は本塁打、打点の2冠で、あとわずかで3冠王を逃した。86年に岐阜県で教員になり、瑞浪監督。94年に母校岐阜高校監督になり、名門を再建。2004年からの大垣西監督を経て、2015年から池田で部長、監督。今春退職し、現在はスポーツ用品卸売業のますかスポーツ(羽島市)に勤務。岐阜ボーイズのコーチも務める。

 ―瑞浪高校から母校の岐阜高校に行かれたんですね。

 福島 30歳の時だった。当時、5年間10季、一度も秋春の県大会に出ていなかった。だから、自分が行った時はOBの「何とかしてくれ」という声は大きかった。最初の練習を一緒にやった時、勝てていないことは知っていたが、「えっ、この子たちできるやん」という印象が強かった。

 こんなにできるのに、逆にどうして勝てないのかと考えた。そうしたら、この選手にはこのポジションは合っていない、もしくは、ほかのポジションをやった方が力が出せるのではないかと考えて、少しずつコンバートして、いじりながら、それぞれの選手の適性を見極めていった。

 コンバートの結果、元のポジションに戻ったとしても、ほかのポジションを経験したことは大きいので、最初の3カ月はポジションをいじった。

 ―歯車がかみ合ってなくて、力を出せなかったわけですね。

 福島 その通り。各選手がもっと力が出せるように心掛けた。さらに打線は、それまで下級生を軸にしているチームだったが、上級生を軸に持ってきた方が、力を発揮する、男気出してやると思ったので、上級生を軸に組み替えた。軸だった下級生を1、2番、あるいは6、7番とかにしたら、上級生が引っ張ってくれてうまくいった。

 元岐阜東監督の森島啓次郎が主将で6番を打っていたが、4番にし、夏は一つ勝った。新チームになって秋は県大会に行けなかったが、次の春からは岐阜地区大会を突破し、県大会に出続けた。

 ―1996年秋に県でベスト4になった。

 福島 3年目だった。当時はベスト4による総当たりの決勝リーグが行われていた。初戦で優勝した岐阜南に9―8で勝ったが、...