知られざる二人のロシア人思想家―ニコライ・フョードロフとレフ・カルサーヴィン―

2025年8月1日
早稲田大学

ロシア哲学の“死と復活”論争に新たな光 知られざる二人のロシア人思想家―ニコライ・フョードロフとレフ・カルサーヴィン―

<発表のポイント>

・死の問題について最も傑出した議論を展開したにもかかわらず、これまで日本はもちろん、世界的にも十分に研究が進んでいない二人のロシア人思想家、ニコライ・フョードロフとレフ・カルサーヴィンの両者の思想の類似点と相違点を明らかにしました。

・  本研究では、フョードロフとカルサーヴィンは、共に死の根源的な克服を目指そうとしながらも、キリストの死と復活の意味をめぐる理解の相違があったことを明らかにしました。

 ・ 本研究はまた、全と一をめぐる動的均衡(「全一性」あるいは「多一性」)の中で人間の存在を認識する点において、両者が一致していることを明らかにしており、一人ひとりの存在を軽視していると短絡的に批判されがちなロシア思想史の哲学的再評価につながることも期待されます。

 

 早稲田大学文学学術院福井祐生(ふくいゆうき)次席研究員は、ロシア哲学における死生観の重要な論争に新たな光を当てました。

 ニコライ・フョードロフ(1829-1903)※1とレフ・カルサーヴィン(1882-1952)※2は、死の問題について最も傑出した議論を展開した2人のロシア人哲学者です。両者の思想は、死の根本的な克服やその宇宙的な視座をめぐり共鳴しつつも、カルサーヴィンはフョードロフの思想を「死者の魔術的復活」であると厳しく批判しており、その思想的な相違や類似は曖昧なままになってきました。

 本研究では、カルサーヴィンの主著『人格について』(1929)に見出されるフョードロフ思想の受容およびこれに対する批判に基づいて、両者の思想を比較考察しました。その結果、両者は共通して「死の根源的な克服」という目標を掲げながらも、キリストの死と復活をどう理解するかにおいて思想的な相違があったことが明確になりました。本研究成果は7月17日に国際学術誌Studies in East European Thought(オンライン版)に公開されました。

 

(1)これまでの研究で分かっていたこと 

 ニコライ・フョードロフについては、1990年代以降のロシア宇宙主義(ロシア・コスミズム)※3 研究の中で、自然のコントロールや宇宙植民などのアイデアが注目されてきました。一方、その宗教哲学的な基礎づけの考察がおざなりにされてきました。

 レフ・カルサーヴィンは、20世紀ロシア思想史の一角を占める人間でありながら、亡命ロシア人たちの一拠点であるパリを離れてリトアニアを拠点としていたこともあり、これまで十分な研究対象になってきませんでした。

 両者の思想は、死の根本的な克服やその宇宙的な視座という点で共鳴していると言われる一方、カルサーヴィンはフョードロフの思想を「死者の魔術的復活」であると厳しく批判しており、その思想的な相違や類似は曖昧なままになってきました。

 

(2)今回の研究で明らかになったこと

 この研究では、レフ・カルサーヴィンの主著『人格について』(1929)に見出されるニコライ・フョードロフ思想の受容およびこれに対する批判に基づいて、両者の思想を比較考察しました。

 1920年代、フョードロフの思想は、信奉者であるニコライ・セトニツキーとアレクサンドル・ゴルスキーにより、ソ連とヨーロッパで宣伝されていました。本研究は、この二人による造語 「死の神格化」がカルサーヴィンの著作にも用いられていることに着眼しました。この語がどのように用いられているのかを検討することで、カルサーヴィンが被造的時間性を克服しようとするフョードロフの思想に共鳴していることを読み取ることができました。

 ではなぜ、カルサーヴィンはフョードロフの思想に対して厳しい批判を繰り返したのでしょうか。カルサーヴィンの思想の根底には、「真の死を通じた真の生」という理念がありました。彼はキリストの受難に焦点を当て、この「真の死」への参与を通じてのみ「真の生」が実現されると考えました。その一方でフョードロフは、キリストの受難を重視せず、その生涯の意義を万人による万人のための復活事業の端緒と解釈することで、キリストの死の現実性を事実上否定していました。カルサーヴィンは、「キリストにおける真の死」という自身の思想の核心となる理念の欠落を認めたために、フョードロフの『共同事業の哲学』の思想を「魔術的」と断じたのです。

 さらに本研究は、両者の思想の根本的な相違にも拘わらず、カルサーヴィンとフョードロフの人格論がどちらも「全」と「一」の動的均衡(「全一性」あるいは「多一性」)に帰結することも明らかにしました。カルサーヴィンは被造世界の「全一性」の直観を展開することで、具体的な人格同士の相互性に到達する一方、フョードロフは「私」による「もう一人の私」の能動的復活という一対一の関係から出発し、これを人類の「多一的」統一へと発展させていました。

 本研究は、フョードロフとカルサーヴィンの思想を綿密に比較することで、両者の思想の中で見逃されがちな複数の性格を浮かび上がらせることができました。

 

(3)研究の波及効果や社会的影響

 ロシア哲学史は、冷戦時から続く「地域研究」の枠組みに嵌め込まれることで、それが本来、西洋哲学史の中で一角を占めるものであるということが学術社会の中で忘れられてしまっています。本研究は、とりわけ20世紀の西洋哲学史・倫理学史において重要であるタナトロジーから、ロシア哲学史に目を向けることで、西洋哲学史におけるロシア哲学史の意義を浮かび上がらせるものです。

 またニコライ・フョードロフやレフ・カルサーヴィンは、ロシア哲学史研究の中でも、中心に位置づけられてきた哲学者たちではありません。フョードロフは哲学的な精緻さの欠如、カルサーヴィンは地理的条件やその思想の難解さから、十分な注目を集めてきませんでした。こうした知られざる思想家たちに目を向けることで、ロシア哲学史や世界思想史の研究がより豊かになってゆくことを期待しています。

 

(4)課題、今後の展望

 この論文で検討した『人格について』(1929)は、レフ・カルサーヴィンの主著ではあるのですが、彼はその他にも『死についての詩』(1931)や5巻本の『ヨーロッパ文化史』(1931-1937)、そして逮捕後に北東ロシアの収容所で書いた諸論考など、たくさんの著作を残しています。私は、彼の著作が哲学、文化史、神学など、様々な側面から取り上げられ続ける可能性を秘めていると考えています。

 

(5)研究者のコメント

 この論文は、2024年3月にヴィリニュス(リトアニア)で開催された国際学会「レフ・カルサーヴィン:リトアニアにおけるロシア人哲学者の道」での発表内容を大幅に修正・補足し、Studies in East European Thought誌の特別号に投稿したものです。カルサーヴィンは、私の師である安岡治子東京大学名誉教授が注目していた思想家でしたが、私自身はこの学会をきっかけに初めて取り組むことになりました。本研究がカルサーヴィンやフョードロフのような素晴らしい哲学者が世界の哲学研究の中で認められてゆくための一助となることを願っています。

 

(6)用語解説

※1 ニコライ・フョードロフ

ロシア人哲学者、司書。1829年、タンボフ県クリュチ村生まれ、1903年、モスクワ没。ルミャンツェフ博物館(現、ロシア国立図書館)の司書でありながら、人類全体の共働による復活の実現という「共同事業の哲学」を構想したことで、ロシア思想史の中で注目されてきました。1990年代初頭からは、ロシア宇宙主義(ロシア・コスミズム)という潮流の代表的人物として取り上げられてきました。

 

※2 レフ・カルサーヴィン

ロシア人亡命哲学者、文化史研究者。1882年、サンクトペテルブルク生まれ、1952年、ソ連コミ共和国アーベジ収容所没。ロシア革命後の1922年、多くの著名な知識人やその家族と共に、いわゆる「哲学の船」によりソ連を追放されました。その後、亡命ロシア思想運動であるユーラシア主義※4に参加しながらも、次第に距離を取り、1928年以降はリトアニアのカウナス大学とヴィリニュス大学で教授活動に従事しました。ソ連がリトアニアを併合した後も、カルサーヴィンは同国を離れることを拒否し、1949年には逮捕されました。その後、収容所生活で患った結核により、その生涯を終えました。

 

※3 ロシア宇宙主義(ロシア・コスミズム)

1990年代以降、スヴェトラーナ・セミョーノヴァが中心となって取り上げた、ロシア思想史において宇宙的な性格に特徴づけられ、宗教哲学、自然科学、文学芸術の複数の領域にまたがる一連の思想。

 

※4 ユーラシア主義

1920年代から30年代にかけての、一部の亡命ロシア知識人たちによる政治的・文化的運動。

 

※5 シンフォニック・リーチノスチ(シンフォニー的人格)

レフ・カルサーヴィンが形成した集合的人格論。

 

(7)論文情報

雑誌名:Studies in East European Thought

論文名:Reconsidering Karsavin’s criticism of Fedorov’s thought in On Personhood: thanatology, Christology, and the theory of personality

執筆者名(所属機関名):福井祐生(ふくいゆうき)(早稲田大学)

掲載⽇時(⽇本時間): 2025年7月17日(online first)

掲載URL:https://link.springer.com/article/10.1007/s11212-025-09732-y

DOI:https://doi.org/10.1007/s11212-025-09732-y

 

(8)キーワード

ニコライ・フョードロフ、レフ・カルサーヴィン、生と死の意味、ロシア宇宙主義、ユーラシア主義、キリスト、復活、シンフォニック・リーチノスチ※5

 

(9)研究助成(外部資金による助成を受けた研究実施の場合)

特別研究員奨励費「ロシア思想から「科学と宗教」を考える:進化論史から見るロシア宇宙主義の生成」(23KJ2014)