織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年6月2日)の翌日付で記された豊臣秀吉の誓約状が見つかったことが20日、東京大史料編纂所の村井祐樹准教授の調査で分かった。毛利氏と対立していたさなか、毛利氏の縁戚が織田側に寝返ったことへの見返りを約束する内容。村井准教授は「誓約状の作成時、秀吉は信長の死を知らなかった可能性が高く、政治的動向が分かる貴重な史料」としている。
誓約状は天正10年6月3日付で、毛利元就の娘婿だった戦国武将上原元将(元祐)に出したもの。毛利氏を裏切り、信長に忠誠を尽くす見返りとして、備後国(広島県)を与えることや、備後国が織田側の手に入らなければ、備中国(岡山県)の一部を与えることなどが書かれている。
だが本能寺の変を受け、秀吉は3日夜から4日にかけ信長の死を知ったとされている。実際は誓約状の日付の翌4日に秀吉は毛利氏と和睦し、約束が果たされることはなかった。こうした経緯から、村井准教授は「大きな混乱の中でも、臨機応変に対応した秀吉の決断力の高さが垣間見える」と指摘する。







