三木自綱がつながりを求めた織田信長。山頂の岐阜城を背にした像が雄々しく立つ=岐阜市大宮町、岐阜公園

 1570(永禄13)年、三木自綱は上洛した。

 「二条宴乗記」1月15日(富山県史史料編Ⅱ中世所収)に信長の在京衆として北畠具教、徳川家康の次に「姉小路中納言殿 同飛騨国衆」と記されている。

 父親の三木良頼は72(元亀3)年に死去しているので、当時はまだ存命で、中納言は実現していないが良頼の呼称。自綱は侍従と呼ばれていた。

 同年3月1日の「言継卿記」(飛騨下呂史料Ⅱ所収)に言継が将軍義昭に対面した顔触れの信長以下に「姉小路侍従自綱」の名があり、3日に言継が義昭に対面した際にも「姉小路侍従」とあることから、「二条宴乗記」にある姉小路中納言は自綱を指していると思われる。

 「信長公記」同年4月14日(飛騨下呂史料Ⅱ所収)に二条城完成の祝賀能の出席者にも...