三木自綱は織田信長と親交を深める中で、信長に郡上攻めを命じられた。
信長と浄土真宗本願寺勢力による石山合戦に参加した郡上の安養寺10世住職乗了が、1573(天正元)年8月16日に本願寺の武将下間豊前守に宛てた書状だ。
「当郡の儀、信長、飛州三木方へ出だし置き、彼(か)の国より近日、当表へ行(てだて)に及ぶべきに相極(きわ)まり候(そうろう)。両遠藤・諸御門徒の衆、申し談じ、是非(ぜひ)に粉骨を抽(ぬき)んずべく候」(飛騨下呂史料Ⅱ所収)とある。
両遠藤は宗家の八幡城主の慶隆と、分家の木越城主の胤基を指す。「飛州志」所収の「千光寺大般若経奥書」でも自綱の郡上侵攻を伝える。...