20日に迫ったプロ野球のドラフト会議。社会人野球の西濃運輸(岐阜県大垣市)には「吉報」を待つ一人の左腕がいる。滋賀・近江高出身の林優樹(20)だ。佐々木朗希(ロッテ)、奥川恭伸(ヤクルト)、宮城大弥(オリックス)らすでにプロの世界で結果を残す同世代の選手とともに日本代表にも名を連ねた高校時代は、指名漏れ。「あの日が自分にとってのスタート」。必ずプロ野球選手になると誓いを立ててから3年。「運命の日」が近づいている。
「高校の時はプロにいけると思っていなかった。仮にいけたとしても絶対活躍できないと思っていた」。林は当時の心境をこう明かす。元々高校時代は社会人志望。プロ志望届を提出したのも家族に背中を押されたからだった。
当時、調査書は「1球団からも届かなかった」という。ドラフト会議当日も「同世代の選手が、どの球団に行くんだろうという思いだった」と振り返り、名前が呼ばれることは最後までなかった。野球を始めた4歳の頃から憧れるプロの世界。次々、同級生の名前が呼ばれることに「悔しさもあった。でも、その日にプロに行く覚悟が決まった」。
◆サヨナラ敗戦を経験「1球にこだわる」
林の名が全国に知れ渡ったのは、2年生だった2018年の全国高校野球選手権大会。「野球人生の分岐点の一つ」と語るこの夏は、背番号18で初戦から毎試合マウンドに上がった。8強入りを懸けた常葉大菊川(静岡)戦では、先発で8回3安打1失点と勝利に大きく貢献。「ぶっちゃけ、あんなに活躍できると思っていなかった」と笑う。
自信をつけて臨んだ準々決勝は、吉田輝星(日本ハム)を軸に大垣日大などを破り旋風を起こしていた金足農(秋田)。五回から救援し好投を続けていたが、最終回に後世に語り継がれる〝悲劇〟が襲う。
2―1のリードで迎えた最後の守り。先頭打者に安打を許すと、会場は異様な雰囲気に包まれ始めた。さらに安打と四球で無死満塁。「スタンド全員が敵に思えた」と苦笑いするほど球場のボルテージは最高潮に達した。そして、誰もが予想しなかった幕切れを迎える。逆転サヨナラ2ランスクイズだ。
「スクイズされて、まずアウト一つと考えていた。自分も二塁走者は全く気にしていなくて。一瞬で試合が終わった」。二走の本塁クロスプレーの判定に、球審の手が真横に広がると、林はマウンドと本塁の中間辺りで両膝に手をつき、ぼうぜん。仲間に肩を抱きかかえられながら、整列に向かった。「1球でチームを勝たせることもできるし、負けることもあると学んだ。あの試合から1球にこだわるようになった」
「絶対に来年ここ(甲子園)で野球をしないと終われない。自分がチームをもう一度連れてくる」。悔しすぎる敗戦と同時に、新チームではエースとして躍動した。夏の滋賀県大会は26回無失点の快投。1年前に誓った通り、再び甲子園のマウンドに戻った。初戦の2回戦で強豪・東海大相模(神奈川)に敗れはしたが高校日本代表に選出された。「衝撃的な毎日だった」とこの経験が大きな刺激となる。
当時は身長174センチ、体重60キロほど。代表の中でもひときわ「小さな存在」だった。「体の違いもそうだし、全てにおいてレベルが違った」と振り返る。特に衝撃を受けたのが代表の中でも仲が良く、今季プロの世界で28年ぶりに完全試合を達成した佐々木だった。
「他の選手とは比にならないほどすごかった。キャッチボールするのも怖かった」とその豪腕が繰り出すボールに度肝を抜かれた。他にも投打で高校トップクラスの選手がそろい「プロはまだ無理だと痛感させられた」と語る。一方でこの仲間との出会いで、プロに進むため必要なことも明確となった。「体づくり」と「球速アップ」。3年後の自らの投手像を描きながら、社会人野球の道へと進んだ。
◆都市対抗の名門・西濃運輸の門たたく
林が大学ではなく、社会人の道を選んだのも、プロを目指すために最善と考えたからだ。「大学だと勉強もあって、いろんな誘惑に負けるんじゃないかって。野球に専念できて、逃げられない道を選びたかった」。都市対抗野球優勝経験もある名門・西濃運輸の門をたたいたが、ここまで2年半の道のりは決して楽ではなかった。
チーム加入後の間もない20年5月ごろ。左肘をけがし、実戦マウンドどころか、ボールを投げることもできなくなった。野球人生初の大けがだったといい「大好きな野球ができないことがこんなにも苦しいんだと初めて知った」。
腐らなかった。ボールも触らず、ひたすらウエートトレーニングなどに汗を流した。「苦しかった。でもやらないと上(プロ)にいけないと思って、真摯(しんし)に向き合った」と妥協せず体づくりに取り組んだ成果は如実に現れた。
1年で体重は10キロほど増え、周囲からも「大きくなったね」と言われるほどに。体重の増加に比例するように球速もアップ。久々に打撃投手として打者と対峙(たいじ)した際、「自分の感覚も、打者の反応も今までと違っていた」と自覚できるほど直球に磨きが掛かっていた。高校時代130キロそこそこだった直球は140キロを超えていた。
やってきたトレーニングは間違っていなかったことが証明された。「体づくりに専念できる環境をつくってくれたチームに本当に感謝している。あの1年目がなかったら、ここまでこられていない」とけがの功名で進化を遂げた。
春先からオープン戦や公式戦で登板機会をつかみ、結果を残し始めた2年目だったが、またしても壁にぶち当たる。けがの再発だ。
21年10月の都市対抗野球大会東海地区2次予選の第4代表決定戦。延長十八回、6時間55分という球史に残る激闘を制した西濃運輸。林も十七、十八回の2回を無失点で切り抜け、チームのサヨナラ勝ちを呼び込んだ。しかし、その裏で左肘はまた悲鳴を上げていた。
本大会は「無理をしてでも投げたかった」が登板どころか、ベンチ入りすら外れた。「プロにアピールする最大のチャンスだと思っていた。1カ月ぐらい立ち直れなかった」。
◆けがとの闘い「プロへの夢捨てられず」
ここでも大きな挫折に直面しながら、逃げ出さなかった。「プロへの夢を捨てきれなかったから」だ。当時はユニホームを見るのも嫌で、練習するのも気が乗らなかった。「毎日逃げ出したかった。でも、気付けばユニホームを着てグラウンドに立ち、一番遅くまでトレーニングをしていた」。指名漏れした時に掲げた「3年後にプロにいく」という期限も迫っていた。「くよくよしてる場合じゃない。次に進まないと」という思いだけが、自身を突き動かしていた。
再び約半年はリハビリやトレーニングに専念。実戦復帰できたのは、今年5月の公式戦だった。諦めず練習に励んだ成果は、自己最速更新と形になった。「もう少し球速を上げたいと思っていたので良かった」とここでも逆境を成長につなげた。
今年は都市対抗野球大会の本大会でも念願の初登板。「集大成」で挑んだ9月の日本選手権東海地区最終予選では、先発を任され好投。スカウト陣の前でアピールした。
現在は体重74キロ、最速147キロ。「体づくり」と「球速アップ」を掲げた3年前を、ともに15キロほど上回り、大きく飛躍。その成果は数字に表れ、11球団から調査書が届いた。
成長した自分があるからこそ、「プロにはいけないと思っていた高校の時とは、心境も全然違う」と指名に期待する。反面、「なかなか寝付けず、時間があるといろいろ考えてしまう」と不安も大きい。それでも確かなことは「覚悟を決めて、この3年間はやり切ったって言える」と胸を張る。人事は尽くした。あとは天命を待つだけだ。
























