8月に岐阜市の長良川球場で行われたプロ野球の巨人-ヤクルト戦。羽島市出身の巨人二塁手、吉川尚輝選手が本塁打や三塁打の活躍を見せ、"凱旋(がいせん)試合"を白星で飾った。背番号は29番。実は、巨人でこの番号を背負ったもう一人の岐阜県人がいる。半世紀前、川上哲治監督率いるV9時代(1965~73年)の巨人に、投手として入団した吉村典男(まれお)さん(77)=恵那市山岡町=だ。同郷の後輩の活躍に「試合に出ている姿を見るとうれしくなるね。長く巨人で活躍してもらいたい」とエールを送る。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」69年4月15日付の本紙(当時は岐阜日日新聞)。「巨人、サヨナラ勝ち」の記事。後半に勝利投手の声。「ルーキー吉村が逆転サヨナラ勝ちに恵まれ、初登板で勝利投手になった。『勝ち投手になるなんて思ってもみなかった。八回の攻撃で2点差になったときボクは代えられると思ったくらいです。こりゃあ運がいいですね』ところがり込んできた初白星を喜んでいた」
この勝利投手が吉村さんだ。68年のドラフト会議で巨人から4位指名を受けて69年入団。「空前絶後の大豊作」と呼ばれた年で、他球団の同期に星野仙一、大島康徳、田淵幸一、山本浩二、東尾修、山田久志、福本豊らがいた。巨人も連覇中のタレント軍団。川上監督以下、投手に金田正一や堀内恒夫、捕手に岐阜県出身の森昌彦(祇晶)、野手に王貞治、長嶋茂雄、土井正三、黒江透修、柴田勲、高田繁、末次利光といった名だたる選手がいた。
吉村さんは、旧恵那郡山岡町で窯業原料の製造販売を家業とする家の長男として生まれ、中津商業高校から日本大学を経て社会人野球のリッカーミシンへ。中津商では1、2年生の夏の岐阜大会準優勝、日大では全日本大学野球選手権優勝、リッカーでも都市対抗野球に出場するという輝かしい実績を持って巨人入り。2年目まで29番を背負った。右の横手投げで「沈む球」を武器にしていた。
入団後、登板機会はすぐに訪れた。オープン戦で南海(現ソフトバンク)の野村克也に本塁打を打たれたが、本拠地・後楽園球場で迎えたアトムズ(現ヤクルト)との開幕3連戦に登場。冒頭の記事が伝える3戦目の4月14日、4点を追う八回表、吉村さんがマウンドに送り出され、九回まで無失点に抑えた。巨人打線は八回裏から爆発し、九回裏に長嶋の逆転打でサヨナラ勝ち。デビュー戦で初勝利を挙げた。
開幕2カ月で5試合に登板したが、選手間競争の激しい巨人。夏以降はファーム暮らしとなり、再び1軍のマウンドに立つことはなかった。3年目から背番号を50に変え、4年目を終えた72年に退団。通算成績は負けなしの1勝。フロント入りの打診や他球団からの誘いも受けたが、長男だったことから故郷に帰る選択をした。帰郷後はプロゴルファーを目指した時期もあったが家業を継ぎ、地元の町議や市議を経験して今に至る。野球では日本プロ野球OBクラブの岐阜県代表幹事も務め、県内で野球教室を開いてきた。
勝利投手となった日の試合球は、今も大切にしている。満員の後楽園球場。長嶋、王らスター選手が守る"ダイヤモンド"の中央で同郷の森のミットを目掛けて全力投球した。「喜びもあったけど、本当にええのかなという思いもあった。子どもの頃から野球をやってきて、まさか巨人の1軍で投げられるとは思わんから」と吉村さん。
巨人入りは「運が良かったから」と謙遜するが、ある信念を貫き通して得た結果だった。「僕の野球人生は元々思い通りにいっていない。高校は県岐阜商、大学は慶応に行きたかった。それでも与えられた環境でベストを尽くしてきた。そしていろんな人の助けがあって巨人に入団できた。一生懸命やっていれば必ず道は開ける」。夢を追う人への吉村さん流のメッセージだ。













