多くの井戸や自噴水がある岐阜県大垣市。良質な水は市内の工業を発展させ、今も多くの市民を潤す。そんな市の中心部には「掘抜井戸発祥の地」という場所がある。自噴水は話題に上がるが、この場所についてはあまり聞くことがない。掘り抜き井戸は大垣で発祥したのか。「水都」ならではの歴史に迫った。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」大垣駅南口から10分ほど東へ歩くと、傍らに「こんにゃく屋文七掘抜井戸」との石碑が立つ井戸がある。由来の看板には「掘抜井戸発祥の地」と書かれている。掘り抜き井戸は、地表から穴を掘り進めて水を求めるのではなく、パイプを地中に打ち込んで地下水をくみ上げる井戸を指す。
市によると、この井戸は復元したいわばモニュメントで、井戸槽(ぶね)の水は上水道の水という。1986年5月9日の岐阜日日新聞(現・岐阜新聞)は「先人の"水への知恵"復元」の見出しで、完成時の様子を伝えている。道路整備で広くなった現在の通りに井戸があったとされ、地元住民が「戦後間もなくまで湧き出ていた」と語る声も載る。この頃までに、旧来の掘り抜き井戸はほぼ姿を消したという。
次に調べたのは「こんにゃく屋文七」。2013年刊行の「大垣市史」を開くと、江戸期の大垣を伝える項目に文七の名前がある。大垣藩医の江馬活堂(えまかつどう)(1806~91)が残した「藤渠漫筆(とうきょまんぴつ)」に短いながらも記録があり、当時の様子がうっすらと見えてくる。
江戸時代、大垣の城下町の人々はまだ用水や湧水を使っていた。岐阜町のこんにゃく屋の文七は、1782(天明2)年ごろ川の近くに大きな穴を掘り、底に材木を打ち込んで作った穴に、さらに竹を打ち込む工法で湧水井戸(掘り抜き井戸)を完成させたとされる。これまでより水が自由に使えるようになり、中には水流に水車を置く人も出たという。井戸水で人々の生活が格段に潤ったことがうかがえる内容だ。
では、文七がこの工法を考案したのか。図書館で参考文献を調べると、江戸中期の法令集「享保撰要類集」の中に、約70年さかのぼる享保年間に、江戸で掘り抜き井戸が造られた記録が残ることが分かった。要衝として人の往来が多かった大垣に、江戸での工法が伝わっていた可能性もある。また、別の史料「大垣藩城代日記書抜」には、約20年前に井戸掘り許可を求める願いが藩に出された記述がある。すでに大垣に技術が広がっていた可能性もあるが、これが掘り抜き井戸なのか、最終的に完成したかの記述はない。藩の許可が必要ということは、水が豊富でも自由に井戸を掘れない当時の事情も分かる。
結果的に「発祥」の表現はどうやら大垣の中に限られるらしい。しかし、文七の伝承が今も残るということは、井戸の完成が人々に大きな衝撃を与えた証拠では。「藤渠漫筆」には文七を「余幼年ノ頃迄アリテ算術ノ名人ナリ、代々智者ト見ヘタリ」と紹介する一節がある。才覚を生かし、最新技術と西濃の地質を存分に利用し地域の生活の質を高めた功績は大きい。
「水の都」のルーツの一つとして、文七の功績は今後も「発祥の地」と共に語り継ぐべき偉業なのは間違いなさそうだ。













