中央で組んだ2基のみこしを押し合う当時の様子。奥の山には、大勢の見物客が写っている(倉知公民センター提供)
倉知祭で使われたみこしの3分の1サイズの模型。2基のみこしが押し合う様子を再現した=関市倉知、倉知公民センター

 かつて「天下の奇祭・けんか祭り」の異名で知られた岐阜県関市の「倉知祭(まつり)」。江戸時代から続き例年4月に開かれる、倉知地区の白山神社と鞍知(くらち)神社の祭礼で、過去には地区ごとで分かれた上組と下組が2基のみこしを押し合って倒し、勝敗を決めた。あまりの激しさに死者やけが人が続出し、押し合いが中止となった。その激しさもあり、一説には田植えの水を引く順番決めが祭りの由来とされているが、郷土の歴史に詳しい関係者は別の説を唱える。その理由は何か。そして押し合いがなくなった経緯を探った。

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 倉知祭は、倉知村の初代領主だった村瀬左馬之介重治の功績をたたえ、寛永11(1634)年から始まったとされる。けんか祭りは地元だけではなく、遠方からも見物人が駆けつけた。倉知祭保存会の山田勝利会長(76)は「人が鈴なりになって祭りを眺めていた」と昭和30年代の様子を振り返る。当時の写真を見ると、見晴らしのよい小高い山は大勢の人でごった返している。

 上組と下組は長さ4メートル、幅1メートルのみこしをそれぞれ担ぎ、激しくぶつかり合う。みこしを押すのに使うのは、長さ3・6~6・3メートルの「がに股」と呼ばれる大木。人の身長を超える高さまでせり上がったみこしを押し合って相手のみこしを倒す。倒れる方向は読めず、下敷きになればけがどころでは済まない。奇祭と呼ぶにふさわしい命懸けの祭りだ。そこまで勝ち負けにこだわるのは、やはり水を引く順を懸けたためか。

 山田会長は「初代領主の重治公は立派な人で、遺徳をしのんだのが始まり」と水争い説を否定する。村瀬家は江戸時代末期まで倉知村の領主を務め、善政を敷いた。祭りの掛け声の「山野豊(さんやほう)」は、野山で働く人々の繁栄を意味する。「農民の一揆が起きる地方もある中で、倉知は村瀬家の善政で平和で豊かな地域だった」と語る。

 当初は重治に感謝した上組が重治の死後にみこしを担ぎ出し、供え物を捧げる祭礼にすぎなかった。その後に下組も同様にみこしを担ぎ出し、みこしをぶつけ合う祭りに発展したという。山田会長は「水争いから始まったという記述は古文書にも一切ない。祭りの勝敗は男たちの意地。勝ち負けで何かを決めたということはない」と強調する。

 長く続いたけんか祭りも戦後の復興が始まると、次第に地元から廃止論が強まる。大きかったのは、運営側の経済的な負担だった。斎主に当たる祭り当番の「当本」が回ってきた家は、年明けから準備が始まる。家の荷物を外に運び出し、人の集まる場所を確保する。祭りの前には親族からの金銭的な援助も受け、大量の酒を購入する。山田会長は「自宅に神様を迎えるので、最初に回ってきたときは畳を入れ替え、身を清めるため風呂も新しくした」と振り返る。

 高度成長期には、若者が職を求めて都市部に出るようになり、担ぎ手不足に。当時の氏子総代がけんか祭りの存続について投票を行ったところ、約7割が廃止を希望した。投票の結果を踏まえ、1964年からみこしを担ぐことをやめた。山田会長は「住民に過度な負担を強いる祭りが時代に合わなくなったのだろう」と推察。84年には、押し合いのない形で再開したが、2011年にはみこしを境内から出すこともやめた。

 みこしの押し合いを体験した人は地元でも少なくなったが、神事自体は毎年執り行われ、祭り文化を継承する動きが進んでいる。旧倉知村の財産を管理する倉知公民センターは、4月に新設した事務所内に展示室を設けた。みこしの模型をはじめ、祭礼の準備から当日までの流れをパネルで展示。平日は一般開放し、見学者を受け入れる。同センターの山田誠一理事長(68)は「地元でも祭りのことを知る人が少なくなった。祭りへの思いを後世に引き継いでほしい」と話す。