8月15日で、太平洋戦争の終結から78年が経過した。

かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」

 1945年のこの日の朝刊は、早朝に届けられることはなかった。この日の正午にラジオ放送で流された昭和天皇の玉音放送が終わるまで、朝刊を配達してはならないとの通達が出されていたためだ。

 当時はどのような紙面だったのか。どのようなニュースを伝えていたのか。岐阜新聞社に残されている1945年8月15日の新聞を読んだ。

◆    ◆

 当時、岐阜県内では岐阜日日新聞(現在の岐阜新聞の前身)を中心に、買収・統合で誕生した「岐阜合同新聞」が配られていた。終戦を伝える玉音放送を受け、午後になって配られた2ページだけの「岐阜合同新聞」紙面には「聖断拜し大東亞戰争終結」との見出しが躍っている。

1945年8月15日付の「岐阜合同新聞」1面。ポツダム宣言の受諾に関する記事や、終戦を伝える昭和天皇の詔書などを掲載。終戦に関する記事で埋まっている

 1面では終戦を告げる昭和天皇の詔書、当時の鈴木貫太郎首相による内閣告諭を掲載。また「米英支三國宣言」として前日に受諾したポツダム宣言の内容のほか、終戦を決定するまでの政府の動きを伝える記事も紹介している。

 題字横に配された記事は、これまで繰り広げられてきた戦争を振り返りつつ、戦況悪化や国際情勢の変遷を記し、こう書いている。

「われら民草事ここに至つたについてはまづ何よりこの事態を率直に認識すべきである、認識してしかして深く深く各自が反省しその大御心に應え奉り得ざりし責を思ふべきである、しかしてこの認識と反省とに基づき承詔必謹。一億團結し眞に沈着、より強き意志をもつて再建日本の第一歩を踏み出すべきである」

 1面社説の題名は「過去を肝に銘じ前途を見よ」。「詔勅は下つた。(中略)國民の分としてただただ 聖旨を奉體して新しい事態に臨むのみである」とする。戦火に亡くなった兵士への冥福を祈ることを呼び掛けているほか、「日本民族が今後歩まねばならぬ途は荊棘(いばら)の途である。日本國民は再び血と汗とをもつて永い道程を踏破することを今日ただ今覚悟せねばならぬ」と説いている。

1945年8月15日付の「岐阜合同新聞」の2面。伊勢神宮の様子を伝える写真を掲載している。紙面に使われている写真はこの1枚のみ
米軍の県内襲撃を伝える短い記事。「東濃地方の小驛」とだけ書かれており、詳しい場所や被害状況には言及していない

 終戦直前まで、県内でも米軍による攻撃を受けていた事実も記事から分かる。「東濃の小驛襲ふ きのふの敵小型機」と題した短い記事だ。記事によると、前日の14日正午ごろ、東濃地域の鉄道駅が敵機によって攻撃を受けたという。各地で民間施設や民間人を狙った米軍戦闘機の機銃掃射と思われるが、記事中では詳しい場所や被害には触れていない。この日には美濃太田駅(美濃加茂市)などが米軍の機銃掃射による被害を受けているが、記事との関連は分からない。

 また、広島と長崎に投下された原爆に関する記事もあり、「原子爆彈 『全人類の自殺』の威力 米では二年半前から工業化」と題し、上海発の特派員特電を載せている。

 広島と長崎での被害の全ぼうもまだ明らかでない時期だったが、原爆投下のニュースを受けた世界各地の有識者による分析を紹介。アメリカでは引き続き原爆の開発が続いていると伝え「それ(原爆)が無制限に戦争に用ひ得られるとしたら日本の抹殺どころか全人類の自殺といふ悲劇を結果するであらう」と締めくくり、原爆の衝撃とその脅威について言及している。

終戦直前に投下された原爆について伝える記事。「全人類自殺」という見出しが衝撃的だ

◆    ◆

 終戦という大局を伝える記事以外にも、当時の県内の衛生状態や食糧事情など、戦争末期の生活の雰囲気が伝わる記事も並ぶ。

 「蠅を殺せ 傳染病が流行る」と題した記事は、戦中の衛生状態の悪化から、県内でチフスや赤痢など伝染病が拡大していることを取り上げ、岐阜市役所が市内で見回りや啓発を行っていることを紹介している。記事の中では、伝染病を媒介するとして、ハエの発生防止策を丁寧に説明している。

 「創意と工夫が必要 配給 相當に窮屈です」との記事は、生活必需品や食料がひっ迫する中、たばこ、みそ醤油、薪炭、酒といった配給物資の見込みについて「當局者の見透しについて訊ねて見よう」という内容。

配給物資の見込みについて解説する記事。見通しが利かない配給状況について、「乗り切るだけの覚悟と創意工夫が必要」と締めくくっている

 専売局や市役所などに取材しており、当面の流通を解説。たばこは「一日三本の割は確保できる見込み」と専売局の担当者。みそとしょうゆについては、岐阜市の担当者が「まだ現物は入荷せぬ」と説明。燃料の薪や炭は「今から燃料を節約して保存しておくことと積極的に自家生産に乗り出しておかぬと今冬厳期寒には憂慮すべきものがあらう」などとし、「情況はいよいよ窮屈化することは免れぬ事情にありこれを乗り切るだけの覚悟と創意工夫が必要であらう」と締めくくっている。

 食料関連の記事では「配給の大豆を生かせ 簡單に出來て甘い『豆もやし』」との記事もあり、豊富な栄養源を得る手段として、もやしの作り方を紹介する内容だ。「京大農学部大槻教授」の談話として掲載しており、「手軽な青物不足対策」として、配給の大豆による豆もやし栽培を推奨。効用や栽培法を紹介しており、「野菜不足から招來せられる栄養障害の最大なるを思ふにつけ最下層の家庭でも一般的に実行出來る方法として推奨する」としている。

 米軍機から投下された焼夷弾の筒を使い、鍬を製作して配給するとの記事も。現在でいう県の出先機関と思われる事務所の所長が考案し、養老郡と海津郡の農鍛冶組合が製作を請け負った品物で、記事の中で所長は「平鍬が極めて簡單なところから彈筒を二枚合せ製作したもので、殘りの切屑で生松脂採集の器具を製作中」とコメントしている。

終戦前日の14日から岐阜・柳ケ瀬で始まった美術展を伝える記事。文化関連の記事はこの1点だけ。戦時中でも芸術活動を続けようと奮闘した先人の思いが伝わる

 その他にも前日の14日には、岐阜市柳ケ瀬の百貨店「丸物」で美術展「焦土に美術を観る會」が始まったと伝える記事もあり、戦火にひるまず文化活動が続けられていたことも分かる。展示は日本画33点、洋画15点、工芸品は約100点とあり、岐阜県出身の画家・前田青邨や加藤栄三の作品も出品されていた。

◆    ◆

 わずか2ページの紙面だが、戦争を伝える記事以外にも、県内の農作物生育状況や学童疎開の情報といった生活に密着した情報も詰め込まれている。終戦を受けて混乱と不安にさいなまれる様子がひしひしと伝わるが、一方で日々の生活に奮闘する県民の意気込みも行間から感じられる。この日から、日本は戦後復興へと新たな歩みをスタートさせることになるが、わずかながらもその萌芽が感じられる紙面だった。

(引用した当時の見出し、記事は一部旧字体を新字体に直して掲載しています)