東洋一の規模と言われた火薬貯蔵施設が、78年前まで不破郡関ケ原町の玉地区にあった。太平洋戦争下、大量の火薬類が集積され、全国の軍需工場へと送られた。正式名称は「名古屋陸軍兵器補給厰(しょう)関ケ原分厰」。今月上旬、跡地を訪ねた。
うだる暑さの中、洞内へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が漂っていた。伊吹山の麓、関ケ原鍾乳洞近くの山腹に、洞窟式火薬庫が残されている。
入り口の先には、高さ3・6メートル、奥行き24メートル、幅7・5メートルの巨大なコンクリート空間。一定の気温や湿度を保つため「天井も床も空洞を設け、魔法瓶のような二重構造になっている」。案内してくれた元玉区長の岩津隆之さん(77)が説明する。砲弾や爆弾製造に使う火薬が積まれていた光景に思いを巡らせた。
洞窟の外には、監視のための立哨台。近くに洞窟式5棟の跡があり、うち一つが公開されている。施設は大正初期の1914年に開設。本州の中央に位置し、民家が少なく、鉄道駅に近いことなどから選定されたという。約220ヘクタールに、洞窟式や土塁で囲った地上式倉庫など約50棟が点在。火薬を運ぶためのトロッコ線が張り巡らされていた。
「1棟に約70~80トンが保管されており、もし空襲されていたらこの地域は吹き飛んでいただろう」と、岩津さんは解説を続ける。幸い、戦火は免れた。山に囲まれた地形に加え、「伊吹山付近の気流は不安定で、米軍機は操縦に気を取られて、見つかりにくかった」とも伝わる。
関ケ原中心街から鍾乳洞へ向かう県道沿いには営門の跡。残された2本の門柱が往時の立派な門構えを想像させる。施設は旧玉村の約3分の1の面積を占め、住民の大半が火薬運搬などに従事した。岩津さんの父もその一人だ。二重の鉄条網で囲われた敷地内では、「火気厳禁」と「秘密厳守」が徹底された。
戦争末期になると、火薬があまり出ていかず、施設内にたまっていった。製造工場が壊滅したのか、本土決戦のための備蓄か―。誰もが「戦況が厳しい」と感じたが、住民は互いに口にすることはなかったという。火薬の保管場所が足りなくなり、総動員で山に穴を掘って新たなスペースを確保。その「素掘り穴」の痕跡が山裾に残る。
営門跡から西へ進んだ県道沿いには半洞窟式15棟も現存。上部は土で覆われ、木が生い茂っている。上空から建物と判別できないよう巧みに隠されていた様子が、今も見て取れる。戦後の1960年代、火薬庫跡地にはスケート場がオープン。残った半洞窟式の建物は、貸し靴置き場や食堂として使われた。岩津さんは「戦争遺構がレジャーという平和の象徴の場になった」と、にぎわいを懐かしむが、もう施設はない。
2010年代、火薬庫の存在を知る世代が少なくなっていく中、自治会と観光協会が一部遺構を一般公開するための整備を進めた。その中心となった岩津さんは「若い世代に少しでも興味をもってもらい、平和のありがたみを感じられる場所になれば」と語った。
















