高見のっぽさん(はっとふる提供)
ノッポさんの同級生の内藤吉雄さん=今月5日、羽島郡笠松町下新町、笠松小学校
丸物百貨店から西向きに見た焼け跡の柳ケ瀬。建物は岐阜劇場(岩田一郎さん撮影、岐阜空襲を記録する会提供)

 NHKの教育番組「できるかな」の巧みな工作で人気を集め、昨年9月に亡くなった高見のっぽさん=享年88歳=は戦時中の1945年7月、疎開先の岐阜県羽島郡笠松町から岐阜空襲で真っ赤に染まる夜空を見ていた。同じ夜、笠松にも焼夷(しょうい)弾が降り注いだ様子や、焼け跡を歩いたことなど岐阜にまつわる戦時体験を死去の11日前に語っている。9日で78年を迎える岐阜空襲は、まだ小さかった当時11歳の「ノッポさん」の瞳に、どう映ったのか。

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 「ものすごく赤い。(空が)ガーッと明るく見えました。もう、火です」。約4キロ離れた笠松から見えた空襲だった。

 昨年8月30日、東京都墨田区のすみだ郷土文化資料館。同区向島にゆかりのある高見さんは、同館から誘われて展示を見学した後、石橋星志学芸員(41)の問いに戦中・戦後の体験を語った。市民団体「岐阜空襲を記録する会」から託された質問も含まれていた。

 2時間弱に及ぶ録音には、岐阜空襲の目撃談に続き、直後に笠松町でも鳴った空襲警報で、自宅庭の防空壕(ごう)に飛び込んだ心境が語られている。

 「『ボーッ』と1機だけ飛行機が近づいてくるから、『何だ、何だ、何だ』と。突如として『ヒューン』と爆弾の音がしたんですよ。これはもう怖いですからね」。わずかな間をおき、「パパパパパパッ」と爆発音が響いたという。

 町史「ふるさと笠松」によると、7月9日午後11時30分、B29による焼夷弾投下があり、如月町付近で火災が発生。軍需工場の小林製作所(現在は笠松刑務所)の寄宿舎や大洋電機の物置、寺院、民家4軒などが焼けた。

 高見さんは戦時中、父嘉一さんの工場の疎開に合わせ、東京都向島区(現墨田区)から家族で笠松に移り住み、高校1年まで過ごした。被災した工場の一つは嘉一さんの勤め先だった。

 岐阜空襲の焼け跡を友人と2人で見に行ったことも述懐している。「もう、丸焼けですよ。全部」。がれきを踏みながら、外壁を残す映画館に入ると、建物の中まで焼けていたという。

 映画館が立ち並んだ県内一の繁華街、柳ケ瀬は、「陸の竜宮」と呼ばれたコンクリート造り3階建ての岐阜劇場が形だけを残し、後は街全体が焼けている。

 「名古屋や岐阜が近く、しょっちゅう空襲警報が鳴って、逃げ歩いとった」と振り返るのは、同級生の内藤吉雄さん(88)=笠松町=。笠松国民学校(現在の笠松小)の北側の中新町にあった高見さん宅に遊びに行ったこともある。

 げたでタップを踊る芸達者な長身の姿が印象に残るという。講堂の屋根裏に一緒に忍び込んで怒られたり、高見さん脚本の劇に出演したり。楽しい思い出の一方で、終戦の5年生の年の学びやは、重苦しい戦争の影が差していた。

 南向きの教室は兵舎に取られ、校庭で兵隊たちが行進の訓練をしていた。「怖くて見れなんだ」と内藤さん。講堂には軍需工場で使うジュラルミンの板が積み上げられ、子どもたちは、くわを手に競馬場の走路の畝でジャガイモを作った。授業どころではなかった。

 戦争や子ども時代をどのように感じたか。問いかけに高見さんは「『お国のために死ね』と言っていた大人が戦後、2、3カ月もしたら『民主主義ってのはいいもんだな』」と。戦争のばかばかしさってのを十分に味わった」と答えた。

 石橋学芸員は「ノッポさんが子どもを「小さな人」と呼び対等な人として接したのは、『こんな大人にはならない』という当時の経験があったからでは、と感じた。またお会いしたかった」と惜しんだ。