桜洞城跡の標柱。奥には土塁や張石などの遺構が続く
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「搦手の北は桜谷、西は切岸。正面の南には武家屋敷があったとされ、堅固」


遺構の残存度

「北西部の土塁や空堀、北側の土塁など一部のみ」


見晴らし

「西側には萩原の街並みが望める」


写真映え

「遺構は一部で本郭跡は田園風景が広がる」


散策の気軽さ

「桜谷公園から遊歩道があり、容易に登れる。公共施設の星雲会館からはJR高山線を渡り、住宅地や田園地帯を登る」


 

 下呂市南部の竹原郷(旧益田郡竹原村)から出て一代で飛騨をほぼ統一し、盟主となった、すご腕の戦国武将がいる。三木直頼(みつきなおより)だ。下呂市萩原町萩原の桜洞城は、若き頃の直頼が永正年中(1504~21年)に築いたとされ、戦国飛騨平定の始まりの拠点といえる。

 桜洞城は飛騨川の流れが形成した谷の中で、最も幅の広い段丘の先端部に築かれた。標高は約450メートル、分類は平山城。そもそも居館であり、戦時の城はほかにあったとされる。だが、北に天然の要害である桜谷、西に飛騨川の河岸段丘が発達し、地形を活用した防御性の高さが際立つ。

遺構が残る北西部の二つの土塁に挟まれた空堀。深さは埋まっている部分含め約6メートルと推定される

 今は、搦(からめ)手側である北西部の土塁や空堀などの残存遺構、北側土塁の一部が見られるのみ。桜谷公園からの遊歩道を登り切ると、眼前一面に広がる田園地帯が本郭跡という。下呂市教育委員会による2009年の発掘調査では、正面とされる南側と、東側に深さ1・5~1・7メートルの空堀や土塁跡を発掘。周囲を堀で囲む構造が確認された。城の規模は最大長約147メートル、最大幅約90メートルと推定される。

城北側に残る土塁。急傾斜の断崖という地形を利用して築かれた

 三木氏は、飛騨守護京極氏の代官で、1411(応永18)年の応永飛騨の乱の恩賞として竹原郷を与えられ、土着したと伝わる。「飛州志」によると、直頼は4代目で、家督を継いだのは父の死去の1516(永正13)年。菩提(ぼだい)寺・禅昌寺の「明叔録」に記載された享年から逆算すると、弱冠18歳だった。ここからわずか5年で高山盆地を制圧。さらに10年後の1531(享禄4)年には姉小路古川家の古川城を落として古川盆地も制し、「国一味」(飛州志・飛騨一宮水無神社棟札)と呼ばれる飛騨平定を遂げて、郡上や東美濃にも侵攻した。

下呂市教育委員会が作成した桜洞城イメージ図。復元図と異なる想像図

 史料では肩書に「益田郡在住」とあり、飛騨平定後も直頼の拠点は桜洞城だったとされる。後に孫の自綱(よりつな)が松倉城(高山市)を築いて拠点を移したが、雪の多い冬季に在城した桜洞城は「冬城」と呼ばれた。

 

 直頼の飛騨統一戦略は、融和策。嫡子良頼は朝廷の官位を得ることで盤石化を図り、孫の自綱は有力者を次々滅ぼし、力でねじ伏せたとされる。だが、その自綱も初代高山藩主になる金森長近に滅ぼされ、桜洞城もなくなった。わずかに残る土塁や空堀が、戦国飛騨の栄枯盛衰を物語っている。

【攻略の私点】「戦国居館として全国屈指の規模」

 天然の地形を活用した高い防御性を誇る桜洞城。仮に「飛州志」に書かれた二重堀である外堀が発掘調査をして確認できれば、「戦国居館として全国でも5本の指に入る規模」と語る、桜洞の歴史を探る会代表の吾郷武日(あごうたけひ)さん(76)に聞いた。

 桜洞城はあくまで居館だが、防御性は極めて高い。西側はJR高山線によって削り取られてはいるが、山を削って傾斜をきつくし、敵が登りにくくする防御施設の切岸(きりぎし)が見られる。北側は桜谷で、登るのは極めて困難な急傾斜だが、さらに人の高さを越える土塁が築かれている。

桜谷公園からの遊歩道。石段が敷かれ、容易に登れる

 北西部の一角に、土塁や空堀などの遺構が残る。三木氏を滅ぼした金森氏の傍系子孫が後世、土地を売ったが、「神木の一帯は手を付けるな」という家訓を守ったからだと思う。一部埋まっているが空堀の深さは約6メートルと推察される。土塁は石を付ける張石(はりいし)が残り、直頼の孫の自綱が改修したと思われる。発掘調査によると南空堀は東端が2メートル弱、西側は約10メートルと次第に深くなっている。

 当時の本街道は東側で、金森には東から攻められた。主力が松倉城に割かれていたため、守る兵は少なく、あっという間に落城したようだ。