難攻不落度
「標高約170メートルで傾斜も緩やか。どこからでも攻めやすそう」
遺構の残存度
「近代の開墾などで地形が変わってしまい、全体像は謎」
見晴らし
「明智光秀が眺めたかもしれない風景に思いをはせる」
写真映え
「城門や馬防柵が再現され、頂上には光秀のブロンズ像もある」
散策の気楽さ
「大手門から頂上までは10分ほどで歩きやすい」
可児市瀬田の丘陵にある明智城跡。「美濃国諸旧記」によると、明智城は美濃国明智荘(あけちのしょう)にあったとされ、康永元(1342)年に美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が築城し、明智姓を名乗った。室町末期には明智光秀の叔父の光安が治めた。斎藤義龍が父の道三を討った1556年の長良川の戦いに関連し、義龍軍の攻撃を受けて落城。光秀は美濃を逃れて越前に身を寄せた。明智城が瀬田にあったかは確定していないが、光秀が青年期までを過ごしたと伝わる地として近年、戦国ファンの注目を集めている。
標高約170メートルで散策路の勾配が緩やかなため、山城の初心者でも"攻略"は難しくない。山の北に位置する大手門をくぐると石畳の「桔梗(ききょう)坂」が続く。ゆっくり登っても10分ほどで頂上に到着する。落城の際に命を落とした者たちを葬ったという墳墓「七ツ塚」、奥に進むと本丸跡の碑。そして昨年に建立された光秀のブロンズ像がたたずむ。
西側の斜面に突き出すように展望台が設置され、一帯にあったとされる「明智荘」が一望できる。のどかな田園風景と、その先に広がる山並みは、光秀が眺めた当時の面影を残しているだろうか。奥の山の一角には、織田信長の小姓として有名な森蘭丸(乱丸)の生誕地として伝わる美濃金山城がある。信長に大きく関わることになる光秀と蘭丸の"距離感"に思いをはせる。
余力があれば「十兵衛坂」を進んで「六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)」がある西大手曲輪(くるわ)を抜けるコースもある。ゆっくり回っても45分ほどで周遊できる。
可児市文化財課 松田篤さん
斎藤義龍軍の攻撃によって落城したと伝わる明智城。特徴や攻略の難しさは―。可児市文化財課の松田篤さん(46)に聞いた。
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自然の地形を生かした山城で、東西約400メートルと長く、広大な面積を誇る。ただし急峻(きゅうしゅん)ではないため、防御の上では不利な点が多い。(敵からしたら)どこからでも攻めやすかったのではないか。
明治以降の開墾などの影響もあって城郭遺構は乏しく、往時の姿を想像するのは難しい。構造は強固でなく、あまり戦闘を想定していなかったのでは。実用したとしても限定的だっただろう。明智光秀の前半生とともに謎に包まれた城と言える。
周遊コースが整備され、散策をしやすいことが"売り"。散策路には、当時をイメージして建てられた城門や馬防柵があるので、戦国気分を味わいながら、気軽に散策を楽しんでもらいたい。
全国的な山城ブームで、県内各地の城跡にも光が当たり、調査研究や登山道の整備が進む。難攻不落の鉄壁の城はどこ? 在りし日の姿を想像しながら記者が登城し"攻略"を目指す。