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高森神社付近から眺める苗木城。天候によっては空に浮かぶようにも見え、晴れれば背景に恵那山も望める=中津川市苗木
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「巨岩が連なる天然の要塞(ようさい)」


遺構の残存度

「大矢倉の石垣などのほか、岩肌に門や柱の跡などが残る」


見晴らし

「頂上からは360度の大パノラマ。山と川が織りなす絶景」


写真映え

「山城の遠景、巨岩、天守からの眺めなど、撮影ポイント多数」


散策の気楽さ

「近くに駐車場があり、見学道も歩きやすい」


 まるで空に浮かぶ岩の要塞―。美濃の東端、木曽川沿いにそびえる苗木城(中津川市苗木)は、天然の岩山を利用した山城。その独特の外観は、ジブリ映画を彷彿(ほうふつ)させる。

 古くから植苗木(うわなぎ)(同市福岡)を拠点としていた遠山氏が、戦国期に入ると武田氏や織田氏の台頭を受け"南下"。標高432メートルの高森山に新たな本拠を築いた。江戸期は苗木藩遠山家12代にわたる居城として幕末まで存在した。

 当時は木曽川河畔から「四十八曲(まが)り」と呼ばれる急坂の登城道が続いていた。現在は城郭跡の近くに駐車場があり、気軽に散策を楽しむことができる。

巨岩を巻き込んだ苗木城の大矢倉跡の石垣

巨岩を巻き込んだ苗木城の大矢倉跡の石垣

 北西の出入り口となる風吹門(かざふきもん)から城郭跡へと近づくと、改めて「岩の城」であることを実感する。すぐ横にある大矢倉跡や、大門跡から本丸跡へと続く"本体"の山肌には、巨岩の隙間を埋めるように石垣が残る。木曽川に突出する南側は「馬洗(うまあらい)岩」などの巨石群が連なる。

 全体が花こう岩の岩山のため造成が困難で、岩に穴を開けて柱を立て、斜面にせり出しながらつづら折り状にやぐらや居館が並んでいたという。今は建物はないが、苗木遠山史料館にある復元模型を見ると、まさに「天空の城」といったたたずまいだ。

巨岩に開けられた当時の柱穴を使って建てられた山頂展望台.jpg

巨岩に開けられた当時の柱穴を使って建てられた山頂展望台

 山頂には、京都の清水寺などに代表される「懸(かけ)造り」の工法で、三層の天守が建てられていた。露出した巨岩には今も四角い穴が確認できる。現在は、その柱穴を利用した展望台が組まれており、恵那山など木曽の山々、木曽川が織りなす360度の雄大な絶景が楽しめる。ここから信濃、美濃のどちら側の勢力の動きにも目を光らせることができたに違いない。

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【攻略の私点】「武力で落とす」は間違い?巨石の要塞

苗木遠山史料館資料調査員 千早保之さん

 「国史跡」に指定されている苗木城。その強みや機能について、苗木遠山史料館の千早保之資料調査員(77)に聞いた。

 巨岩で覆われた城で、攻めるにもどう登っていいか分からない。その迫力をぜひ間近で体感してほしい。

 木曽川を渡って、この岩山を登るのは大変な労力。一方、登城道を攻め上がるとしても「四十八曲り」と呼ばれるつづら折りの急坂なうえ、城内には21の門があり、侵入者を立ちふさぐ。武力ではなく交渉で陥落させることが現実的ではないだろうか。

山頂展望台からの絶景。360度のパノラマが楽しめる.jpg

山頂展望台からの絶景。360度のパノラマが楽しめる

 ただ、木曽川対岸の中津川中心地が、信濃や美濃へ抜ける街道沿いで、武将たちの目もそちらを向いていた。そこから外れたこの城を落とさなければならない必要性もなかったのかもしれない。

 伝承では、織田信長の死後、東濃一帯を狙った森長可に攻撃されたことがあるという。その時、激しい風雨で城内に霞(かすみ)がかかって、兵は前後も分からなくなり侵攻を諦めた。「霞」が城を守ったことから別名「霞ケ城」とも呼ばれている。