川本勇さんインタビュー、最終回の6回目は、岐阜総合の部長で岐阜大会準優勝の翌年に転任した母校大垣南でも決勝に進出。岐阜大会で学校をまたぐ2年連続の準優勝、大垣南でベスト8にも2度導いた軌跡や秘けつ、ベストゲーム、さらには4度のチャレンジで果たせなかった甲子園への思いなどを聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

―さらに2007年、2008年にも岐阜総合、母校の大垣南と学校をまたいでの2年連続の岐阜大会準優勝だった。
川本 2007年決勝は、選抜準優勝した大垣日大の森田貴之君に完封された。この時は前の年に伏見圭太先生に監督を譲って部長だった。それで次の年に、母校の大垣南に転勤になって、その夏に決勝までいった。2度も2年連続決勝いっていて負けたのは日本全国でも、自分だけじゃないかと思う。周りにも「ちょっとおらんよこんな人」とよく言われた。
―赴任した年の大垣南は、いいチームだった?
川本 前年2007年秋の県大会はベスト8までいっていて土岐商に負けていた。春にいってみた時に、すごい能力の高い子がいっぱいいたので、これはいいぞと思った。
秋は1位中京、2位土岐商、3位市岐阜商、4位県岐阜商で、春は1位市岐阜商、2位県岐阜商、3位中京、4位土岐商でベスト4が同じ顔触れだった。
最初に選手に言ったのが「岐阜総合のころから、この4校は結構、試合をしていたので、よく知っている。君たちの能力なら絶対勝てるので、周囲から聞かれた時に夏は絶対勝ち上がって、上まで行きますと言え」だった。
今までの指導者人生でいろいろやってきたことを教えながら、ポジションも少し変えた。特にセカンドとサードを入れ替えた。ボールへの入り方が、お互いに向いていないと思ったので、うまくいった。
さらにイップスでまっすぐがストライクに入らなくなって投げていなかった子が、ピッチャーをやっていなかった。
市岐阜商で2006年に4番を打っていた竹中直木(元西濃運輸)の弟の健太郎。でも、少し見て、いいピッチャーだと思ったので、変化球を投げさせるとストライクが入った。これでいいじゃんということで、夏は、...