川本勇さんインタビュー、最終回の6回目は、岐阜総合の部長で岐阜大会準優勝の翌年に転任した母校大垣南でも決勝に進出。岐阜大会で学校をまたぐ2年連続の準優勝、大垣南でベスト8にも2度導いた軌跡や秘けつ、ベストゲーム、さらには4度のチャレンジで果たせなかった甲子園への思いなどを聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

2014年岐阜大会ベスト8で敗れ、ナインに語り掛ける大垣南監督時代の川本勇さん

 ―さらに2007年、2008年にも岐阜総合、母校の大垣南と学校をまたいでの2年連続の岐阜大会準優勝だった。

 川本 2007年決勝は、選抜準優勝した大垣日大の森田貴之君に完封された。この時は前の年に伏見圭太先生に監督を譲って部長だった。それで次の年に、母校の大垣南に転勤になって、その夏に決勝までいった。2度も2年連続決勝いっていて負けたのは日本全国でも、自分だけじゃないかと思う。周りにも「ちょっとおらんよこんな人」とよく言われた。

 ―赴任した年の大垣南は、いいチームだった?

 川本 前年2007年秋の県大会はベスト8までいっていて土岐商に負けていた。春にいってみた時に、すごい能力の高い子がいっぱいいたので、これはいいぞと思った。

 秋は1位中京、2位土岐商、3位市岐阜商、4位県岐阜商で、春は1位市岐阜商、2位県岐阜商、3位中京、4位土岐商でベスト4が同じ顔触れだった。

 最初に選手に言ったのが「岐阜総合のころから、この4校は結構、試合をしていたので、よく知っている。君たちの能力なら絶対勝てるので、周囲から聞かれた時に夏は絶対勝ち上がって、上まで行きますと言え」だった。

 今までの指導者人生でいろいろやってきたことを教えながら、ポジションも少し変えた。特にセカンドとサードを入れ替えた。ボールへの入り方が、お互いに向いていないと思ったので、うまくいった。

 川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。

 さらにイップスでまっすぐがストライクに入らなくなって投げていなかった子が、ピッチャーをやっていなかった。

 市岐阜商で2006年に4番を打っていた竹中直木(元西濃運輸)の弟の健太郎。でも、少し見て、いいピッチャーだと思ったので、変化球を投げさせるとストライクが入った。これでいいじゃんということで、夏は、...