1964年選抜で岐阜県の私立高校で初めて甲子園出場を果たした岐阜東。2年生捕手として県高校野球の歴史を変え、長年、県高野連の審判部長として、県高校野球を支えてきた川島稔さん(76)に秘話や高校野球について聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
1964年選抜で岐阜東の捕手として岐阜県の私立初の甲子園に出場し、長年県高野連審判部長を務めた川島稔さん=岐阜市司町
 川島稔(かわしま・みのる) 1947年、岐阜市生まれ。捕手。社会人野球の東海電電(現NTT西日本)で活躍。現役引退後、23歳から岐阜県高野連審判員。副審判部長を経て、2010年から24年3月まで審判部長を務める。現在も同審判部で、後進の指導に当たる。

 ―創部7年での快挙。どんな野球部でしたか。

 川島 一学年上の谷田木樹さん、船見信幸さんらはドラフトで指名されるほどで、いい選手が集まった。自分も伊奈波中(岐阜市)からバッテリーでと誘われ、入学した。ベビーブームで部員は1年だけで200人いた。グラウンド周辺の田んぼでも守っていたほどだった。

 ―その中で、1年生から正捕手として活躍された。

 川島 肩には自信があった。中学は違うが、同じ1年の清水求がアンダースローで、いい投手だった。右打者の背中からカーブが降ってくる感じで、練習試合にきた平安(現龍谷大平安)の衣笠祥雄(元広島)が3連続三振した。1年の秋に県大会で優勝し、東海大会では1回戦で興誠商(静岡、現浜松学院)に勝ち、準決勝で東邦(愛知)に0―1で敗れたが、その東邦が決勝で大勝し、選抜出場できた。学校の盛り上がりはすごく、甲子園に向かうのに岐阜駅までパレードした。甲子園にも40~50台の応援バスが出て、すごかった。

 ―甲子園では。

 川島 とにかく、すごく緊張し、五回くらいまで地に足がつかなかった。初回にスクイズで先制し、やったと思ったが、その裏に4点取られ、安芸(高知)に1―7で負けた。清水の調子がそれほど悪いわけでも、被安打7で打ち込まれたわけでもなかったが、...