雨が大敵の県岐阜商。春夏各30度甲子園出場の名門だが、1935年選抜2度目Vの準決勝愛知商戦の再試合、高木守道主将の59年選抜の決勝中京(現中京大中京、愛知)戦のノーゲーム再試合、鍛治舎巧前監督の69年選抜準々決勝博多工(福岡)戦の敗退など幾度となく雨に苦しめられ、ジンクスと言われた。中でも89年選抜は高校野球史に残る雨中の激戦となり、勝利目前から不運な打球が続き、サヨナラ負けした。小川信幸監督と長男信和さんの親子鷹でも話題となり、春夏連続出場した年。後に自らも同高監督として選抜ベスト8に導いた当時遊撃手の小川信和さん(52)=岐阜県高野連副理事長、山県高部長=に秘話や甲子園の思い出を聞いた。
2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
小川信和(おがわ・のぶかず) 1971年岐阜市生まれ。遊撃手、県岐阜商から専修大を経て、岐阜県の教員になり、高校野球指導者に。中津商、岩村(現恵那南)、岐阜城北、県岐阜商で監督などを務め、現在は山県部長。母校監督として2015年選抜に出場し、ベスト8。岐阜県高野連副理事長。父信幸氏も県岐阜商の監督、部長として春夏14度、甲子園に出場し、元岐阜県高野連会長。
―秋春夏、県内無敗。どんなチームでしたか。
小川 われわれの代は2年時に半分くらいが夏のメンバーで、私も8番遊撃手で試合に出ていた。夏5連覇がかかり、練習は毎日、吐くほどきつかった。
父親が監督でしたが、新しい厳しい練習を次々取り入れた。中でもグラウンドの20カ所近くに分かれ、部員がノッカーになって延々と行ったマンツーマンでのノックはつらかった。
その夏は大垣商の篠田淳さん(元ダイエー、現ソフトバンク)と決勝で対戦し、打てずに敗れたが、あの練習があったから強くなれた。
新チームになり、投手は右の林和彦、左の辻真一の2枚がいたが、最初の練習試合で東海大工(静岡)だったかに1―15で大敗した。そこから、また練習が厳しくなった。
―名門実に12年ぶりの選抜出場。盛り上がったでしょうね。
小川 周囲はすごかったと思います。ただ、現場の選手としては一球一球に集中するだけだったので、...