経営者の多くは本業の事業活動に加え、経済団体などに籍を置き、財界活動に取り組む。二代目山口軍治もその一人だった。還暦を機に社長を後任に託して会長になってからは、財界活動に軸足を移した。

 「県内経済の発展には道路網の整備が必要」が持論だった軍治。1993年4月、県経済同友会の7代目筆頭代表幹事に就任すると、早速、地域高規格道路「濃飛横断自動車道」の実現を陳情するため、建設省(国土交通省)に赴いた。

 建設事務次官(右)に濃飛横断自動車道の実現を陳情する県経済同友会筆頭代表幹事の山口軍治(左)=1993年4月8日、建設省

 濃飛横断道は、郡上郡八幡町(郡上市)から益田郡下呂町(下呂市)を経て、中津川市までの約80キロを結ぶ計画。東海北陸自動車道と中央自動車道をつなぐ「県土一時間交通圏」の実現に向けて、県内の高速交通体系を補完する道路として位置付けられていた。

 軍治は同友会の飛騨地区代表幹事、インフラ委員長を伴い、建設省の事務次官三谷浩らに必要性を訴えた。「濃飛横断道は地域開発に必要な道路。早急に実現を」と強く求め、三谷は「この計画はよく承知している。道路局で検討を急ぐようにさせる」と理解を示したという。

 地元の自治体も計画の実現を繰り返し要望し、現在は郡上-下呂市間が開通している。軍治は94年1月の本紙インタビューで「21世紀は高齢化社会を迎え、福祉経費の負担が増大する。まだ、経済的余力のある今のうちに道路整備を実現しなくてはいけない」と先を見据えていた。

 社団法人県経営者協会の設立総会であいさつする会長の山口軍治=1997年1月30日、岐阜市長良、岐阜グランドホテル

 軍治は県経営者協会の8代目会長も務めた。「組織の社会的信用度を高めるため法人格を取る」。97年1月30日、岐阜市内で開いた総会で任意団体だった協会を社団法人へ移行すると宣言した。「基盤強化によって会員企業の負託に一層、応えていきたい」と思いを述べ、会員数1100社という目標を打ち出した。当時、会員数は千社ほどだったが、会員拡大により岐阜の協会は東京、大阪、愛知などに次いで全国で五つの指に入る規模を誇った。

 軍治は業界活動にも熱心に取り組んだ。エスラインギフ会長時代の95年1月から99年4月まで、県トラック協会(県ト協)の4代目会長を務め、業界の発展に腐心した。県ト協の会長は長年、西濃運輸のトップが担ってきたが、会長の田口利夫が任期途中で全日本トラック協会長に就き、多忙を極めたため、副会長だった軍治が指名された。軍治も後に全ト協の副会長を務めた。

 職場の花コンテストで審査員を務める県トラック協会会長の山口軍治(左)と青年部会長の山口嘉彦=1995年10月8日、羽島郡柳津町、流通センター公園

 精力的に動いた軍治は、新規事業も多く手掛けた。その一つが96年に始まった安全運転意識を高める県ドライバーコンテストだ。1年間無事故、無違反でないとエントリーできず、違反や事故の抑止につなげた。長時間運転する運転手の年間の走行距離は、一般ドライバーのおよそ10年分といわれる。全国大会に進んで優勝すると内閣総理大臣賞と副賞の海外派遣賞が授与され、それはドライバーの誇りになった。

 業界には全ト協が92年に制定した「トラックの日」(10月9日)がある。県ト協は七つの支部ごとに行事を開いていたが、軍治が会長に就任した年は全支部が一緒になってトラックの日カーニバルを羽島郡柳津町(岐阜市柳津町)で実施。映画「トラック野郎」シリーズで主演した俳優菅原文太を招いてトークショーを開き、大いに盛り上がった。会員事業所が頑張っている女性を推薦した「職場の花コンテスト」も実施し、軍治は審査員を務めた。そこにはコンテストを企画した県ト協青年部の部会長だった軍治の長男で、後にエスラインギフ社長、県ト協会長に就任する嘉彦の姿もあった。(敬称略)