1882(明治15)年4月6日夕方、板垣退助は金華山の麓、中教院(現在の岐阜公園内)にいた。自由党総理(党首)として、立憲政治の必要性を説き、会場は拍手に包まれた。直前に多治見、岩村(現恵那市)、中津川、太田(現美濃加茂市)と、県内を横断。その来訪は、岐阜の自由民権運動にどんな刺激を与えたのか。

懇親会が開かれた脇本陣森家の建物はなくなったが、中津川市中山道歴史資料館展示施設に「上段の間」が再現されている=同市本町

 板垣一行の行動について、御嵩警察署詰御用掛岡本都嶼吉が詳細に記録した「探偵上申書」の内容が、岐阜県警察史に記載されている。そこには「中津川村をもって最も盛んなり」と盛り上がりを伝える一方、各地の様子を「決して自由主義を尊び開会するになく」などと記述。主義に同調している者はごく一部で、実際は有力者の呼び掛けで集っているだけだ、と感じたようだ。

 板垣の足取りを追ってみる。3月31日夕に名古屋から多治見に入り、懇親会。4月1日に岩村に移動。2日に懇親会があり、板垣は自由の大義を説いた。

 板垣退助が泊まった水野薬局。明治期から使われている看板が目を引く=恵那市岩村町

 3日に中津川へ。劇場「旭座」での演説会は「聴衆充満してアリの這(は)い入る隙間もなき有様。早や殺気の渦巻くを見た」(板垣退助君傳記(でんき))。熱気があり過ぎたからか、前座演説の途中で警官に中止解散を命じられ、聴衆は乱闘寸前。「官権の抑圧に反抗する形勢は予想外に飛び上がった」(同)。有志らは旧脇本陣森孫右衛門宅で新たに懇親会を開き、板垣も演説したという。中津川市史によると、街は「喧噪(けんそう)を極め、警官が辻々を固め、戒厳令下の様相だった」。

「旭座」があった場所に立つ石碑=中津川市新町

 脇本陣跡地に立つ市中山道歴史資料館の西村友孝館長(70)は「中津川宿は江戸期、多くの町人が平田国学の影響を受けた。その流れをくむ人たちが明治に自由民権運動の中心となっていった」と解説する。幕末には、倒幕運動を進める長州藩と関わりを持ったり、討伐対象だった水戸天狗党を歓待したエピソードを挙げ、「庶民でありながら支配者に物を言うような風土があった。板垣来訪についても、(明治政府にあらがう)街のエネルギーを感じる」と語る。

板垣退助が泊まった中山道旧太田脇本陣林家住宅=美濃加茂市太田本町

 4日は太田に宿泊。「強いて一泊を求められ」(探偵上申書)とあり、予定外だったことがうかがえる。泊めたのは当時県議で、のちに国会議員となる林小一郎氏。ひ孫にあたる中山道旧太田脇本陣林家住宅十代目当主・林眞司さん(65)は「小一郎が東濃に出向き『道中だからぜひ太田でも演説を』とお願いして実現したようだ」と語る。街の様子は「あたかも救世主の再来を仰ぐがごとき活況を呈した」(板垣退助君傳記)。

 5日に厚見郡(現岐阜市)入りし、迎えた6日の懇親会。県内を回って板垣はどれだけの手応えを感じていただろうか。会場を出た瞬間、一人の青年が駆け寄り、「将来の国賊め」。叫んで刀を振り下ろした。

なぜ板垣は遊説に来た? “無風”の岐阜、起爆剤に

 140年前、板垣退助はなぜ岐阜遊説に来ることになったのか。明治政府に対抗する自由民権運動は盛り上がっていたのか。

 「岐阜縣人民は極(きわめ)て政治思想に冷(ひやや)か/誰一人として国会開設の請願を爲(な)すものあらざり」(板垣伯岐阜遭難録)。岐阜遭難事件の3年ほど前に愛知から岐阜に来た岩田徳義は、当時の様子を記している。愛知県で新聞の主筆を務めていた岩田がわざわざ岐阜に来て自由民権運動をけん引したことからも、組織的な活動はなかったことがうかがえる。

岩田徳義の肖像(「板垣伯岐阜遭難録」所収、国立国会図書館デジタルコレクションより)

 前岐阜市歴史博物館長の黒田隆志さんは「岐阜中心部(現在の金華、京町地域一帯)に限れば、知識層は経済活動を重視しており、政治的変化を求めていなかった」とする。

 岩田は、板垣来岐を実現させた人物。1882(明治15)年に「濃飛自由党」を立ち上げた。自由民権運動を研究する中元崇智中京大教授は、板垣来岐について「岐阜での党勢拡大の最大の起爆剤としようとした。逆に、板垣という大物を呼ばなければならないほど自由党勢力は強くなかった」と解説。

 板垣がそんな岐阜の地で暴漢に襲われたのは、偶然か必然か―。中元教授は「岐阜で事件が起こったのはある意味で偶然。だが、こうして岩田が意図的に呼ばなければ来ることはなかったという点では必然だったとも言える」と語る。

 ところで、山岳地帯の東濃などと木曽三川下流の西濃など平野部では地勢上、抱える問題が違っていた。岐阜県議会史によると、同年の県議会では、前年の大洪水を受けて治水費が大幅に増額したことを巡り紛糾。「東濃・飛騨出身議員は不平を鳴らし、相次いで辞任している」。治水より道路整備を求める東濃には、反政府的な運動が浸透しやすい土壌があったのかもしれない。