太田郁夫さんインタビュー4回目は打撃指導編。岐阜三田を初の甲子園に導いた1998年の岐阜大会のチーム安打数80本は、27年後の今夏、県岐阜商に84本で塗り替えられるまで、岐阜県記録だった。いかにして球史に残る高い打撃力を養ったかの秘訣や、名門・県岐阜商伝統のセンター返しを基軸にした独自の打撃指導法について聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)
―岐阜三田が初の甲子園出場を果たした当時、岐阜県のチームは甲子園でなかなか力が発揮できずに、力を出す前に負けていたと思う。ところが、岐阜三田は初戦の徳島商戦で岐阜大会とは打って変わって、わずか2安打だったが、それこそ淡々と試合して、1―0で完封勝ちした。
太田 あの年はピッチャーのローテーションがうまくいったのと、打線がものすごく安定していた。秋に県3位で東海にいき、一冬越して練習試合をしていくと、相手の監督が「この打線はおもしろいね」と言ってくれた。甲子園の初戦では2安打だったが、どこが相手でもカンカンと打った。
夏の大会中でも甲子園でもウエートトレーニングを継続してやり、フリー打撃でも音がよかったので、みんながしっかり、ボールを芯でとらえていたんだと思う。
個々に今、こうなっているぞとか、こういう方法もあるぞという話をしたことはあるが、何でできないんだとか、こうしろとか言った記憶はない。
岐阜新聞デジタルの甲子園の振り返り企画(2024年3月21日)で、インタビューしてもらった4番だった堀田裕紀が「監督が淡々とやれと口ぐせのように言っていたのができたのが甲子園出場の要因」と言っていたが、根底にはそれがあったように思う。
1975年に報徳学園(兵庫)主将としてセンバツで優勝し、明大でも優勝した渋谷渉さんが日生学園二(現青山、三重)で監督をしていて、...









