太田郁夫さんインタビュー4回目は打撃指導編。岐阜三田を初の甲子園に導いた1998年の岐阜大会のチーム安打数80本は、27年後の今夏、県岐阜商に84本で塗り替えられるまで、岐阜県記録だった。いかにして球史に残る高い打撃力を養ったかの秘訣や、名門・県岐阜商伝統のセンター返しを基軸にした独自の打撃指導法について聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

 太田郁夫(おおた・いくお) 1953年、揖斐郡揖斐川町生まれ。県岐阜商時代は投手、3年時はマネジャー。チームは春夏甲子園に出場し、夏ベスト8。愛知大に進み、投手として活躍。卒業後、77年4月、母校県岐阜商で定時制の教員となり、野球部副部長。翌78年から全日制教員。80年に監督。90年、岐阜三田(現岐阜城北)に異動し、監督就任。98年に同高を初の甲子園に導き、翌年秋に教え子の藤田明宏監督に引き継ぎ、部長に就任。その後、市岐阜商、山県で部長を務め、2014年3月に退職。母校の県岐阜商でコーチを務め、高橋純平(元ソフトバンク)を育てる。24年まで同校OB委員長を務め、2年先輩の鍛治舎巧さんを監督に招聘するなど、母校野球部再建に尽力した

 ―岐阜三田が初の甲子園出場を果たした当時、岐阜県のチームは甲子園でなかなか力が発揮できずに、力を出す前に負けていたと思う。ところが、岐阜三田は初戦の徳島商戦で岐阜大会とは打って変わって、わずか2安打だったが、それこそ淡々と試合して、1―0で完封勝ちした。

甲子園での采配を終え、球場を後にする岐阜三田時代の太田郁夫さん(1998年8月16日)

 太田 あの年はピッチャーのローテーションがうまくいったのと、打線がものすごく安定していた。秋に県3位で東海にいき、一冬越して練習試合をしていくと、相手の監督が「この打線はおもしろいね」と言ってくれた。甲子園の初戦では2安打だったが、どこが相手でもカンカンと打った。

 夏の大会中でも甲子園でもウエートトレーニングを継続してやり、フリー打撃でも音がよかったので、みんながしっかり、ボールを芯でとらえていたんだと思う。

 個々に今、こうなっているぞとか、こういう方法もあるぞという話をしたことはあるが、何でできないんだとか、こうしろとか言った記憶はない。

2安打で徳島商を破り、甲子園初出場初商を遂げた岐阜三田ナイン=1998年8月10日、甲子園

 岐阜新聞デジタルの甲子園の振り返り企画(2024年3月21日)で、インタビューしてもらった4番だった堀田裕紀が「監督が淡々とやれと口ぐせのように言っていたのができたのが甲子園出場の要因」と言っていたが、根底にはそれがあったように思う。

 1975年に報徳学園(兵庫)主将としてセンバツで優勝し、明大でも優勝した渋谷渉さんが日生学園二(現青山、三重)で監督をしていて、...