川本勇さんインタビュー4回目は、学校統合前年に赴任した岐阜総合を一からつくり上げ3度、岐阜大会決勝に進み、甲子園に何度も近づく強豪にした秘けつ。さらに大野奨太選手(元日本ハム、中日)を未経験だったキャッチャーにコンバートして大成させた可能性を引き出す指導法について聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

―大垣西から岐阜総合に赴任されるんですね。1996年の赴任時はまだ岐阜西工で、翌年に岐阜第一女子と合併して、岐阜総合が誕生となりますが、岐阜西工が新生岐阜総合の礎になったんですか。
川本 今でさえ、入試の独自検査があるが、当時は公立普通科では選手をお願いして集めることができなかったので、推薦のある商業や工業に行きたかった。
岐阜県は県岐阜商はじめ商業が今でも強く、甲子園に行っているが、工業はかなり以前に岐阜工や多治見工が甲子園に行ったが、長年行ってなかった。
新任のころから異動希望を出す時に工業をお願いしますと言い続けてきた。ようやく念願がかなって喜んで異動した。
そうしたら、次の年に工業がなくなって、総合になることが決まっていた。不勉強で知らなかったが、どうしようかと思った。
でも赴任してすぐは、選手はたくさんいたので、まず、取得していなかった大型の運転免許を取るために自動車学校に通って、免許を取った。
川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。
当時、遠征は電車が普通だったので、多治見や大垣西では、電車だった。滋賀県などは駅の近くに高校があるので、よくお邪魔した。岐阜西工では大型バスで遠征に出かけるようにした。
最初の年は、毎試合12個以上、三振取るようないい左投手が2年生にいた。岡田...