太田郁夫さんインタビューの3回目は、新任からの母校県岐阜商の指導者を経て、1990年4月に岐阜三田(現岐阜城北)に転任してからのこと。県岐阜商時代にいろいろと感じ、実践して、98年に同校初の甲子園出場を果たすなど岐阜三田高校時代の指導について聞いた。
太田郁夫(おおた・いくお) 1953年、揖斐郡揖斐川町生まれ。県岐阜商時代は投手、3年時はマネジャー。チームは春夏甲子園に出場し、夏ベスト8。愛知大に進み、投手として活躍。卒業後、77年4月、母校県岐阜商で定時制の教員となり、野球部副部長。翌78年から全日制教員。80年に監督。90年、岐阜三田(現岐阜城北)に異動し、監督就任。98年に同高を初の甲子園に導き、翌年秋に教え子の藤田明宏監督に引き継ぎ、部長に就任。その後、市岐阜商、山県で部長を務め、2014年3月に退職。母校の県岐阜商でコーチを務め、高橋純平(元ソフトバンク)を育てる。24年まで同校OB委員長を務め、2年先輩の鍛治舎巧さんを監督に招聘するなど、母校野球部再建に尽力した。
―岐阜三田では。
太田 同じ学校にずっといるわけにはいかないが、転任は特に希望を出したわけでなく、僕の高校時代に野球部の副部長だった加藤茂先生が校長になって戻ってきて「太田先生、そろそろ代わってもいいやろ」と言われ、転任させてもらった。
その時に「野球やらないかんぞ」と言われ、岐阜三田の校長にも「三田高は野球が強くないとだめだ」と言われたが、転任した時は自分で監督をするつもりはなかった。監督は県岐阜商での教え子の山田誠治で「お手伝いはするけど、頑張れよ」と声をかけたくらい。ところが、5月の終わりごろに保護者が校長に頼みにいき、「監督をやってもらえないか」という話になり、引き受けた。
岐阜三田は鍛治舎巧さんの高校時代に県岐阜商で監督だった日下部政憲さんが監督をし、秋の東海大会準決勝で惜敗してセンバツ補欠校になる(1987年)など成績を挙げていたが、当時は弱体化していた。...









