新任から長年、母校県岐阜商の指導者を務め、教員退職後もコーチやOB委員長として、鍛治舎巧前監督を支えるなど全国でも珍しい公立強豪校の強化に尽力してきた太田郁夫さん(71)。同校転任後は、監督として岐阜三田(現岐阜城北)を初の甲子園に導き、県強豪校としての礎を築き、市岐阜商では部長を務めるなど、県岐阜商だけでなく、岐阜県全体のレベルアップに貢献してきた。第1回は野球との出会い、名門中興の祖と言われる故中野鍵一さんから母校を託された指導者人生のスタートについて聞いた。

 太田郁夫(おおた・いくお) 1953年、揖斐郡揖斐川町生まれ。県岐阜商時代は投手、3年時はマネジャー。チームは春夏甲子園に出場し、夏ベスト8。愛知大に進み、投手として活躍。卒業後、77年4月、母校県岐阜商で定時制の教員となり、野球部副部長。翌78年から全日制教員。80年に監督。90年、岐阜三田(現岐阜城北)に異動し、監督就任。98年に同高を初の甲子園に導き、翌年秋に教え子の藤田明宏監督に引き継ぎ、部長に就任。その後、市岐阜商、山県で部長を務め、2014年3月に退職。母校の県岐阜商でコーチを務め、高橋純平(元ソフトバンク)を育てる。24年まで同校OB委員長を務め、2年先輩の鍛治舎巧さんを監督に招聘するなど、母校野球部再建に尽力した。
母校県岐阜商や岐阜三田(現岐阜城北)などで指導者として活躍し、岐阜県高校野球のレベルアップに努めた太田郁夫さん=岐阜市内

 ―野球との出会いは。

 太田 小学校4、5年生のころ。それまでは何も思わずに、田んぼで草野球やっていたくらい。六つ離れた兄が中学で野球をしていたことも影響していたかなあとは思うけど、当時、高木守道さんがプロ野球で活躍し、地位をかためつつあった時代で、ものすごくあこがれた。それが〝岐商〟を目指すきっかけだった。

 揖斐川町の北和中学に入学し、野球部に入ったが、当時、揖斐郡は揖斐中、大野中、池田中が強くて、鍛治舎巧さん(大野中)や、岐商でバッテリーを組む成瀬辰男さん(池田中)らがいた。僕が岐商へ入学した時は鍛治舎さんらレギュラー9人中4人が揖斐郡出身者。中学1年の時に、鍛治舎さんたちをみて、「この人たちすごいなあ」と思ったことは今でも、よく覚えているし、〝岐商〟で野球がしたいという思いが一層、強くなった。...