「岐阜はひっくり返るような騒ぎだ」。板垣退助岐阜遭難事件翌日の1882(明治15)年4月7日、岐阜入りした愛知県病院の医師後藤新平は、街の物々しい空気に驚いた。事件の一報は瞬く間に全国を駆け巡り、報復を試みる血気盛んな自由党員が各地から岐阜へ集結。「まるで革命前夜のような熱気」(明治の事件史)を帯びた。

かつて今小町にあった「玉井屋旅館」。板垣退助ら自由党関係者が宿泊していた

 6日夕に事件が起こった後、傷を負った板垣は中教院の門前長屋で岐阜県病院の医師らの応急手当てを受け、夜遅くに宿泊している今小町の玉井屋旅館に運ばれた。

 翌7日午前、板垣の側近から呼ばれた後藤が、治療のため玉井屋旅館に駆け付けた。「板垣退助君傳(でん)記」には後藤の回顧談として、岐阜の光景を「自由党の壮士が要所要所を固めている。中には(頭に)鉢巻き、たすきで剣を背負う者、竹槍(やり)を持つ者もおり、実に物騒な有様だ」などと記されている。自由党の幹部のほか、高知の立志社からは40人余の党員が岐阜へ急行。岐阜県史によると「岐阜の秩序は一時自由党壮士の手に握られたとすら言われる」ほどだった。

後藤新平(国立国会図書館ウェブサイトより)

 岐阜に集った自由党員たちは「政府側が放った刺客に違いない」と息巻いた。犯人・相原尚?(なおぶみ)の背後には政府の黒幕がいたのだろうか。板垣研究を進める中元崇智中京大教授は「相原の単独犯行だろう。事件後、全国に自由民権運動が広がり、板垣人気が高まった。政府にとって、板垣襲撃はデメリットでしかない」と語る。高知市立自由民権記念館出版の「板垣退助伝記資料集」を編集する元土佐史談会副会長の公文豪さんも「相原は板垣批判を展開する政府系の新聞に感化され、反政府の運動を推進する板垣が国賊であると考えた」と動機を解説する。

 事件後、玉井屋旅館には政府要人らからの慰問状が届いた。4月12日には、天皇の勅使が来岐して御手許金300円が下賜され、15日に板垣が大阪へ向けて出発すると、岐阜の騒ぎも沈静化した。

 一方、現場で取り押さえられた相原は、岐阜重罪裁判所で裁かれ、同年6月28日に「無期徒刑」が宣告。7年後の1889年、大日本帝国憲法発布による恩赦を受けた。相原の恩赦を願い出たのは板垣だった。

現在の岐阜市今小町。正面は岐阜新聞社。明治期には玉井屋旅館や岐阜日日新聞発行所などがあった

 伝記や論文などによると、出所後に訪ねてきた相原に向かって、板垣は「(事件は)私怨で殺そうとしたのではなく、国家観念より起こったもの」と罪を許すとともに「今後、板垣の行動が真に国家に害悪だと思ったら、再び刃(やいば)を向けられても決して恨むことはない」と語りかけたという。

 相原は同年、遠州灘付近を航行する汽船から姿を消した。罪を悔いて自ら海に身を投げたのか、はたまた何者かに突き落とされたのか―。今も真相は謎のままだ。

記者も刺客?党員が疑う 岐阜日日新聞を標的に

 板垣退助遭難事件の直後、岐阜に集った自由党壮士たちは「刺客は複数いる」と疑い、共犯者捜しに狂奔した。実はそのドタバタの渦中に、前年に発刊したばかりの岐阜日日新聞(現岐阜新聞)もあった。

 真っ先に嫌疑の標的にされたのは、岐阜日日新聞記者の池田豊志智。伝記や遭難記、自由党本部報などによると、池田は事件前日に板垣が宿泊する玉井屋旅館で犯人・相原尚?と談笑し、当日の中教院(現在の岐阜公園内)懇親会場でも相原と一緒に座って酒を飲み、壇上に上がって叫ぶなどの行動をとった。さらに事件直後には会場から金華山林へと姿を消した。

明治時代の岐阜日日新聞社(濃飛官民之宝鑑より)

 自由党員が山狩りをしたが見つからなかったため、今小町の岐阜日日新聞発行所は、自由党員から「暗殺陰謀の策源地だ」(板垣退助君傳記)と憎悪の焦点にされた。鍵谷龍男主筆は釈明に追われ、糾問する党員の鉄拳にも見舞われた。池田は事件5日後の4月11日、梅林付近で泥酔していたところを発見され、警察に拘束された。人騒がせな池田だったが結局、数週間の拘留後に事件とは関係がないことが判明し、釈放された。

 明治期の岐阜日日新聞で残っているものはわずかで、事件後にどんな報道をしていたのか詳しく分からない。わずかに残る紙面データを調べると、5月13日付の朝刊社説で、「池田が無罪放免の旨を宣告せられたり」と報告。池田が連行されたことや鍵谷への暴挙などで、岐阜日日新聞社員が大変な辱めを受けたとして「たとえ板垣君の体の傷は癒えても、自由党のこの無礼な行動を治すことは難しいのでは」などと断じている。

 【後藤新平】 明治~昭和初期の医師、官僚で政治家。愛知県病院長兼医学校長だった1882年の岐阜事件では、管轄外にもかかわらず、愛知から駆け付けて往診した。翌年に内務省衛生局に入り、1903年に貴族院議員に勅選されると、鉄道院総裁、内相、外相などを歴任。南満州鉄道初代総裁も務めた。20年東京市長となるなど政治家としても活躍した。