板垣退助岐阜遭難事件から約3カ月後の1882(明治15)年7月18日。伊奈波神社近くの芝居小屋「末広座」で、事件を題材にした作品が初上演された。決めぜりふは「板垣は死すとも大日本の自由党は滅びませぬ」。板垣の信念を象徴する言葉は、観客を大いに沸かせたことだろう。

 末広座の挿絵(美濃乃魁より)

 同年4月の岐阜事件後、さまざまな商品や広告に「自由」という言葉が躍った。板垣人気も社会現象になり、錦絵に描かれたり演説集も出版。自由民権運動の象徴として「泰斗(たいと)」(その道の権威者)などと呼ばれた。

 ブームは、芝居などの庶民の娯楽にも取り入れられた。岐阜事件の芝居について研究する土谷桃子岐阜大日本語・日本文化教育センター教授によると、最も早く芝居化したのは板垣の出身地・高知で同年6月。調査できる限りでは、岐阜は2番目のスピード上演だといい「“ご当地”として、やはり庶民の関心が高かったのだろう」と語る。

 板垣退助岐阜遭難事件の芝居について解説する土谷桃子教授=岐阜市柳戸、岐阜大

 7月18~22日の岐阜日日新聞(現岐阜新聞)朝刊に掲載された記事や劇評をひもとくと、タイトルは「花吹雪伊奈波の黄昏」。看板俳優は中村七賀十郎で、犯人・相原尚褧(なおぶみ)を演じた。ハイライトである中教院での襲撃の場面について、紙面では「相原がまず一番の当たり役にて芸も上手」などと評した。土谷教授は「登場人物が実名なので、高知の芝居とは別のオリジナル脚本だろう」と分析する。

 一座は翌8月に名古屋公演を行い、明治期の雑誌「歌舞伎新報」にはこの公演が「とりわけ大人気」と記されている。土谷教授は「岐阜で人気だったからこそ名古屋でも上演されたのではないか」とする。

 事件を題材にした芝居は同年内、大阪や東京で上演計画があったものの実現しなかった。土谷教授は「明治期の芝居には、娯楽性とともに、報道性や宣伝性があった。だからこそ、政府への忖度(そんたく)や、政府からの圧力があったのかもしれない」とみる。

 「板垣」「相原」「民」の文字が確認できる泥めんこ(高知市蔵)

 一方、高知市では明治期の小学校用地などから「板垣」「相原」「自由」などと書かれた「泥めんこ」が出土した。一部は同市立自由民権記念館で展示されており、同館報で「自由民権運動が子どものおもちゃにまで映し出されている」と解説している。さらに、同館には「自由」と書かれた大とっくりや「自由主義」と彫られた焼き印なども保管されており、同館担当者は「明治15、16年ごろに自由という言葉が流行していたことを示している」と話す。

 岐阜事件によって板垣が伝説的な名声を得た一方で、自由党は事件から2年後の1884年に解党した。政府からの弾圧、資金繰り失敗、統率力の低下などが要因だった。

パリなどで見識高めたが… 板垣外遊、解党の遠因に

 1884(明治17)年10月、自由党は解党を決議した。その背景の一つとして、岐阜事件から半年後に出発した板垣退助の欧州外遊が、党の内紛につながったことが挙げられる。

 板垣は盟友後藤象二郎らとともに、82年11月から83年6月にかけてパリやロンドンなどを訪れた。その外遊費が政府から間接的に支出されているとして、党員の一部が強く反対したが、板垣はこれを無視して外遊に出た。最高指導者不在の中、政府の取り締まりに対抗した急進派によって福島事件や群馬事件などの暴動が次々と起こされると、党は統制力を失った。

 板垣退助が愛用したルイ・ヴィトンのトランク(個人寄託・高知市立自由民権記念館保管)

 「岐阜事件で高まった勢いが失われた。板垣にとって欧州外遊はマイナスの方が大きかっただろう」と、板垣研究者の中元崇智中京大教授は解説。それでも、「知識人と会ったり、西洋の政治思想や社会の進歩に肌で触れたりしたことで、政治改革への気持ちを新たにした」ことは成果だったとする。

 パリでは「レ・ミゼラブル」で知られる文豪ビクトル・ユゴーと面会。「板垣退助君傳(でん)記」によると、板垣が「東洋は固陋頑冥(ころうがんめい)で改革が至難である」と説明したところ、共和主義者のユゴーは「進め、進め、ただ進め、しかるときは巉巌(ざんがん)(険しいがけ、高い岩)も君が前に排し開かれん」と激励したという。

 ところで、板垣は現地で大量の書籍を購入。それらの本を持ち帰るために、パリでルイ・ヴィトンのトランクを買った。ふたの表側に「ITAGAKI」と印字されたトランクは、日本人が購入した現存する最古のルイ・ヴィトンとされ、板垣の郷里の高知で保管されている。