東京五輪バドミントン女子ダブルス代表 福島由紀・廣田彩花(丸杉)

 2021年7月24日。福島由紀と廣田彩花のフクヒロペアがようやくたどり着いた東京五輪、その第1戦がいよいよ始まった。コートを動き回る2人の姿が、この大舞台でも見られるはずだった。しかし、会場に現れた廣田の姿を見て、期待は心配に変わった。右足に大きなプロテクターが装着されていたからだ。


丸杉、朝日大学病院医療チームの決断


東京五輪開幕1カ月前 廣田が前十字じん帯断裂

 五輪開幕まで1カ月あまりとなった6月18日、福島と廣田は全日本合宿に参加するため、東京都北区にある「味の素ナショナルトレーニングセンター」にいた。合宿は最終盤。コートでは実戦形式の練習が繰り返された。

 この日、廣田は少し違和感を感じながらコートに立っていた。疲れが蓄積していたが、五輪間近で気持ちが高ぶり、体と心がアンバランスな状態だったのだ。ラリーが続く中、そんな廣田の左側にシャトルが返ってきた。右足に力を込めてハイバックで拾った瞬間、廣田は膝にこれまでにない痛みを感じて座り込んだ。すぐに併設のメディカルセンターへ。MRIによる診断結果は、右膝前十字じん帯断裂。通常であれば、速やかにじん帯再建手術を行うケースだ。

 2人が所属するバドミントンチームを創設した株式会社丸杉代表取締役社長の杉山忠国は、東京から岐阜に戻る新幹線の車中で連絡を受けた。今井彰宏監督の動揺した声から廣田の状況を察した杉山は、すぐに自身のネットワークを活用して最善の治療体制づくりに取りかかった。


「プロテクターがあれば動ける」

 より正確な情報をもとに、より確かな治療をより迅速に行うこと。これはスポーツ傷害に限らず、全てのケガや疾病に当てはまる。廣田のために集まった2人の整形外科医とキャリア豊富なトレーナーたちには、これらに加えて「出場か、断念か」という厳しい判断が求められた。

 医療チームの1人、朝日大学病院整形外科の教授であり、多くのアスリートを診てきた塚原隆司は、改めて撮ったMRI画像と触診によって廣田の状態を全て理解した。右膝前十字じん帯断裂、さらに半月板に損傷があった。

 前十字じん帯は太腿の軸となる大腿骨と、膝から下の軸となる脛骨をつなぐ役割を持つ。断裂した場合、膝を前後に動かしたり回したりすることは不可能で、バドミントンの試合はもちろん戦えない。

 五輪出場は無理か?しかし、医療チームは手術を五輪の試合後まで延期すると決めた。半月板損傷は軽微。骨挫傷を含め、じん帯断裂以外に傷はない。廣田の右足を支える装具があれば動ける。これらの事実が大きな決断につながったのだ。課題は「五輪でどのように戦うか」に絞られた。

 ただし2週間は痛みが引かず、立った状態でのトレーニングはできない。その間は医師とトレーナーが絶えず腫れをチェックし、必要であれば塚原が関節への注射によって懸命に腫れを抑えた。そして7月に入り、大腿部からふくらはぎまでを覆う"あの"プロテクターが完成。立った状態での練習がスタートした。


スポーツ障害を防ぐためにできること

 戦うための体に戻すには医師とトレーナーの力がなくてはならない。一方、勝つためには廣田の状態を考慮した戦術が必要だ。試合では廣田が狙われると見越した福島は、拾えるシャトルは全て自分が拾うという戦術に変更。ペアの力を何とか70~80%の状態にまで上げ、五輪の初戦を迎えた。

 スポーツに「たら・れば」は禁物だ。しかし、もしもケガをしなかったら2人は準決勝、さらにその先へ行けたと思ってしまうのは、決してファン心理だけではない。

 常に試合で100%の力を出せるように、アスリートはケガを避けることができるのだろうか。塚原は「大切なのは、わずかでも身体に異常を感じたら声に出して伝えられる環境づくり。そして、選手一人一人の状態を把握し、おかしければ練習をストップさせる人の存在が重要です」と答える。医学の力とともに、コミュニケーションできる場と雰囲気づくりが、ケガの予防に大きな役割を果たすということだ。

 一方、福島はアスリートの目線で、「身体の異常をトレーナーの方に正確に伝えるには、まず普段の身体の状態を、自分自身が把握する必要があります。その上で、今の状態と比較したり、先を予測したりできれば、ケガを防ぐために適切な対応ができると思います」と語る。


ケガをして見つけたものを今後のプレーに

 8月6日、塚原によるじん帯再建手術を受けた廣田は、2週間の入院を経て無事退院した。この夏を振り返って廣田は、関わった人々への感謝とともに、こう語った。「五輪のコートに立てたことに大きな喜びを感じ、2人で試合を楽しめました。しかし、日が経つにつれて悔しさが募ったのも事実です」。やはり辛い経験だった。

 しかし、ケガをしたことで、これまでのようにがむしゃらに動くのではなく、自身の身体に気を配りながらシャトルに向かうようになったとも言う。パワーに加え、再びケガをしないための技術を身に付けた廣田と、これまで以上に躍動する福島による新しいフクヒロペアのバドミントンを、多くの人々が待っている。

(敬称略)

術後の状態をチェックする塚原教授


前十字じん帯断裂の治療法 膝関節模型による解説

 前十字じん帯とは膝関節の中にあり、膝を安定させる役目をしています。関節内にあるため血流が乏しく、切れてしまうと自然治癒の可能性はほぼありません。特にスポーツに復帰したい方には、患者さん自身の腱(自家腱)を移植する「前十字じん帯再建術」が勧められます。


◇フクヒロペア 福島由紀・廣田彩花

 

 岐阜市に本拠を置く丸杉所属。令和2年度第74回全日本総合バドミントン選手権大会女子ダブルス優勝、2020年全英オープン優勝など多くのタイトルを獲得。東京五輪ペスト8。21年女子ダブルス世界ランキング1位(21年10月現在)。


◇杉山忠国 株式会社丸杉 代表取締役社長

丸杉バドミントン部の創設者。五輪直前の廣田の負傷に際しては、自ら陣頭指揮を執って診療チームを組織した。


◇塚原隆司 朝日大学病院 整形外科 教授

岐阜高校、名古屋大学医学部卒業。専門は膝疾患、スポーツ外傷。年間約100例の前十字じん帯再建を担当。FC岐阜、全日本男子ホッケー等のチームドクターを歴任。


◇丸杉バドミントンアリーナ

 今井彰宏監督のもと、世界に羽ばたくトップチームの本拠地(岐阜市)では、ジュニアやシニア向けレッスンなど地域スポーツにも貢献。