八日町合戦の翌1583(天正11)年、三木自綱は武力制圧を加速する。
岡村利平「飛騨編年史要」によると、1月25日に実弟鍋山顕綱を殺害する。「飛州志」鍋山城に、自綱が家臣の長瀬甚平と土川新三郎に密書を渡して顕綱を呼び出させ「長瀬書を出し、事を述ぶる處(ところ)に、土川飛びかかって顕綱を組み臥(ふ)せ、すかさず首を取る」とある。顕綱の妻も殺害し、次男秀綱を鍋山城主としたとある。
「飛騨編年史要」はこの後、牛丸氏、広瀬氏を立て続けに討伐したとする。
弟殺害の2日後の1月27日「自綱、広瀬宗域と兵を合わせ、小鷹利の牛丸綱親を伐(う)つ」とある。
その牛丸攻めに合力した広瀬山城守宗城も9月19日に殺害される。
「飛州三木自綱、広瀬山城守を殺して広瀬城を取り、広瀬兵庫守宗直(宗域の子)出走す」とある。自綱は息子の秀綱を松倉城に置き、自ら広瀬城に入った。
牛丸氏は八日町合戦で江馬輝盛を討ったとされる功臣、広瀬氏は祖父直頼の代から三木氏に従い、協力してきたが、自綱は容赦なく討伐し、支配を固める。
学芸員で安国寺住職の堀祥岳さん=高山市国府町西門前=は「天文年間(1532~55)以来混迷してきた飛騨国内の政治情勢は再び三木氏による統一が図られた」とする。
天文年間は、自綱の祖父直頼の治世で、殺害による制圧ではなく、飛騨の有力者と友好関係を保つことで、事実上、飛騨を統一していた。
それが、直頼が没した54(天文23)年以降、混迷してきた。自綱は最初の飛騨統一者とされてきたが、堀さんは自綱による武力制圧を「再統一」とみる。
「飛騨中世史の研究」の岡村守彦さんも直頼時代を「一種の連邦制」、自綱を「他の有力者をみな滅ぼしてしまったのだから、正に独裁支配」としながら「直頼・良頼の時代にも統一されていたには違いなく、やはり、最初の統一者とするのは誤りである」とする。
だが、自綱もわずか2年で覇権を失う。(森嶋哲也)