飛騨再統一後、三木自綱は家督を次男秀綱(嫡男宣綱は殺害)に譲った。
本願寺顕如の秘書が記した「宇野主水日記」の1584(天正12)年に「飛騨国姉小路より年頭の礼、秀綱と云(い)う」とあり、続いて「訅(きゅう)庵(自綱)親也」として、それぞれ太刀代や紙などが贈答品と数が記されているが、当主は秀綱と認識されていた証拠。
「飛騨編年史要」には松倉城に秀綱、自綱は広瀬城に在城とある。...
飛騨再統一後、三木自綱は家督を次男秀綱(嫡男宣綱は殺害)に譲った。
本願寺顕如の秘書が記した「宇野主水日記」の1584(天正12)年に「飛騨国姉小路より年頭の礼、秀綱と云(い)う」とあり、続いて「訅(きゅう)庵(自綱)親也」として、それぞれ太刀代や紙などが贈答品と数が記されているが、当主は秀綱と認識されていた証拠。
「飛騨編年史要」には松倉城に秀綱、自綱は広瀬城に在城とある。...