難攻不落度
七つの曲輪(くるわ)を備え、全方位に対応可能。土塁や堀など防御機能も充実
遺構の残存度
主郭は四周を土塁で盛られていることがよく分かる
見晴らし
関ケ原古戦場方面を一望できる。東西両軍の布陣を記した看板もある
写真映え
撮影ポイントは頂上からの眺望か
散策の気楽さ
整備された登山道はあるものの、アップダウンが激しく健脚者向け
岐阜県不破郡関ケ原町の南西にそびえる松尾山は、1600年の「関ケ原の戦い」で小早川秀秋が布陣した地。標高293メートルの山頂一帯には、複数の曲輪や堀の遺構が残り、ただの陣所ではなく、山城だったことを物語っている。
築城時期は不明だが、古くは1570年に浅井長政が近江と美濃の国境の要として配下を置いた史料が残る。関ケ原の戦いを控えた石田三成は、大垣城主伊藤盛正に命じて松尾山城を改修させたという。
現在、南北に登山口があるが、合戦気分で古戦場側の北口から"攻略"に向かった。しかし登山道はアップダウンが続き、息も絶え絶え。40分ほど登ると、北東の曲輪跡に到着した。尾根線に沿って平場が築かれ、両側には土塁が張り巡らされている。
さらに登ると、頭上に主郭跡が見えてくる。北側には竪堀、北西側には空堀と敵の勢いを止める「喰(くい)違い土塁」を備え、見上げれば絶壁の切岸で、守りに抜かりはない。関ケ原の戦いでは北東に東軍、北北西の麓に西軍大谷吉継の陣があった。
主郭跡は、四周に高さ1メートルほどの土塁が盛られ、南側には桝形虎口(ますがたこぐち)。入念な防御機能は、大規模な戦いへの備えをうかがわせる。古戦場を見渡すと、笹尾山の石田三成陣跡、決戦地の碑、岡山の東軍黒田長政の陣跡に立つのぼり旗が目視できる。視界の端には徳川家康が陣を構えた桃配山も。正面に西軍、右手に東軍、合戦当日は両軍の形勢が良く見えただろう。
秀秋は合戦前日、伊藤盛正を追い出すかたちで松尾山に布陣したという。彼の寝返りが東軍勝利を決定づけた。最初から西軍の側面を突くつもりで選んだ地だったのか、ここから戦況を眺めながら東軍加勢を決めたのか―。421年前の10月21日(旧暦9月15日)、10代の若き武将が見つめた光景に思いを巡らせた。
西美濃最大級の山城、松尾山城について、関ケ原町地域振興課の学芸員川島行彦さん(29)に解説してもらった。
東西約400メートル、南北約250メートルという巨大な規模を誇る。東西南北の各尾根線に沿って七つの曲輪(くるわ)が築かれ、全方向からの敵に対処することができる。
東側の二つの尾根には土塁を備えた曲輪。南側は交互に配置された3本の堀切、西側は深い空堀が曲輪と主郭を断ち切る。それらを突破しても切岸が立ちはだかり、主郭への侵入には多大な犠牲を強いられる。
関ケ原の戦いに際して、石田三成は、西軍総大将毛利輝元を呼ぶためにこの城を改修させたとも伝わるが、まさに西軍の拠点にふさわしい場所といえる。
山頂からは関ケ原の市街地方面を一望でき、この山が中山道や北国街道、伊勢街道といった主要街道を押さえることができる要地であることも分かる。関ケ原の戦いにとって鍵となった地であることに加え、山城としての重要性や魅力も兼ね備えている。