岐阜羽島駅前の公園に妻と共に立つ大野伴睦氏の銅像。首相を〝約束〟されたが、かなわなかった=羽島市福寿町浅平

 第100代の首相が誕生した。1885(明治18)年に就任した初代の伊藤博文以降、64人目となる首相だ。続いて控える衆院選は政権選択の選挙。国民の"お墨付き"を得て新内閣を軌道に乗せられるか、注目が集まる。だが、今回も岐阜県から首相が出ることはなかった。県民性なのだろうか。首相を多く輩出している県の特徴は。そして、岐阜県から首相を出すには-。県ゆかりの歴史家や政治学者に聞いた。

◆大野伴睦氏は目前に断念 

 首相官邸のウェブサイトに掲載されている歴代首相の顔触れ。出身地(原則として戦前は出生地、戦後は選挙区)を見ると山口県8人、東京都5人、岩手、群馬県4人と続き、広島県も現首相の岸田文雄氏を加えると4人になる。そして、全国29の都道府県で首相を輩出しているが、岐阜県はゼロ。通算在職日数は山口県出身者が1万5569日で、日数2位の群馬県出身者の3501日を大きく引き離して断トツ。年にして43年近くもの間、山口県出身者が国政のトップに立ってきたことになる。

 戦前は、明治維新を成し遂げた長州藩と薩摩藩を中心とした藩閥政治の色合いが濃く、山口県と鹿児島県の出身者が交互に首相を務めた時代もあった。その影響は戦後も残っていそうだが、鹿児島県からは戦後に首相が出ていない。

 歴史家の加来耕三氏=東京都=は、両県の県民性を歴史から読み解く。「薩摩には将帥(しょうすい)学が根付いていた。実務は優秀な部下に任せ、トップは責任を取るだけでいい。西郷隆盛や東郷平八郎のような親分と子分というリーダー像。ところが、戦後はそういうやり方が合わなくなった」。一方の山口県は戦後も首相を輩出し続けた。「長州にリーダーはいない。同志の集まり。吉田松陰も同志。親分と子分の関係と比べて結束力が弱い分、調整能力が高い。それが戦後の米国式の民主主義とマッチした」

 岐阜県出身者で最も首相の座に近づいたのが、自民党副総裁を務めた大野伴睦氏だろう。1960(昭和35)年、岸内閣の後に池田内閣が誕生したが、これが大野内閣になる可能性があった。今春に文庫化された大野氏の自伝「大野伴睦回想録」。当時、岸信介首相から「岸内閣を救ってくれ、そうしたら安保改定直後に退陣して必ず大野さんに政権を渡す」と頼まれ、誓約書さえ存在したことが記されている。だが、約束は池田勇人氏ら複数人と交わされていたようで、大野氏は総裁選の攻防のあおりを食らい、土壇場で立候補を断念。「一身を殺して義に生きようと決意した」と振り返っている。

 官僚出身の岸氏や池田氏らと異なり、たたき上げの大野氏。自らの使命を「官僚政治家が往々にして持つ冷たさに対して、政治や行政に大衆感覚を、人間的な温かさを注入することにある」としたが、首相になることはかなわなかった。

 岐阜県出身の政治家について、政治学者で岐阜聖徳学園大客員教授の福岡政行氏=東京都=は「自分が、と前面に出ていく人がいない。二番手で家老役に徹するような人が多い。東西のはざまにあり、関ケ原合戦の歴史が語り継がれる中で東西の様子見のような風土があるのではないか」と印象を語る。同じことは加来氏も話していた。他県からはそう見えるのだろう。

 ならば、岐阜県から首相が出ることはないのだろうか。福岡氏は岐阜県と同じ海なし県で山国だが、首相を多く輩出している群馬県の政治家との決定的な違いを挙げる。野心だ。中でも、中曽根康弘氏を筆頭に「東京大を出て官僚になり、政治家になった人には強い野心があった」と話す。

 首相への道は、国政選挙で当選を重ねて閣僚経験を積むことから。特に小選挙区制で当選者が各区1人となった現在、知名度のある現職ほど有利になり、当選回数が増える傾向に。だからこそ「地元のことは気にせず、中央で存在感を高めることに専念できる」と福岡氏。「やる気さえあればなれる。岐阜県を良くしたいという野心を持ち、みこしに担がれるタイプの政治家がいれば岐阜県から首相が出る」と強調する。