ラブミーチャンに騎乗し、GⅠジョッキーにもなった浜口楠彦さん(直筆サイン入り、笠松愛馬会提供)

 「ハマちゃん」の愛称で慕われ、笠松競馬ファンの一番人気騎手だった浜口楠彦さん。ラブミーチャンとの名コンビで、2009年12月のGⅠレース「全日本2歳優駿」(川崎)では、JRA勢を寄せ付けずに圧勝した。あの夜の快挙から10年が経過。ハマちゃんは13年11月、現役ジョッキーのまま53歳で亡くなった(心筋梗塞)が、愛きょうのある「ハマちゃんスマイル」は、名牝ラブミーチャンとともに笠松競馬復興のシンボルだった。レースでは好位差しを得意とし、騎乗馬を力強く動かすファイターぶりと、その柔和な笑みが目に浮かぶファンは多いことだろう。

 37年間、笠松一筋で地方競馬通算2560勝。1976年同期デビューのアンカツさん(安藤勝己元騎手)らがJRA移籍後も、生え抜きのベテラン騎手として経営状態が厳しい笠松の屋台骨を支え続けた。出身は三重県で、中学1年の頃からジョッキーを目指して笠松競馬の厩舎住まい。13年1月に引退したアンカツさんとは中学校の同級生で、生年月日も同じ。初騎乗の日も一緒だったが、ハマちゃんが先に初勝利(デビュー当日)を飾った。身長150センチ、ジョッキーとしても小柄で、ずんぐりとした体形。「昭和の名優・フランキー堺さんに似ているかも」といわれた風貌でも親しまれた。数々の名馬に乗ってきたが、最後の直線での追い比べでは、持ち前の「これでもか」の豪腕ぶりを発揮。数々のビッグレースを制し、応援したファンに幸運を運んでくれた。

2度目の年度代表馬になったラブミーチャンの受賞セレモニーで喜びを語る浜口さん(右)と柳江仁調教師(左)

 13年9月末、笠松競馬場には早朝の調教を終えて、関係者と談笑するハマちゃんの姿があった。前年秋の笠松グランプリでラブミーチャンが2着に敗れて以降、コンビは一時解消。JRAの福永祐一騎手らに手綱を譲り、「俺、降ろされちゃったから」と寂しそうな表情を見せていた。それでも6月の名古屋でら馬スプリントでは、ラブミーチャンでV3を達成。7月の習志野きらっとスプリント(船橋)にも「乗りたかった」というが、肉体は悲鳴を上げ、騎乗を断念した。関係者によると、「かつて、けがをした脚にボルトが入っていて、痛み止めを打ちながらの騎乗で、体はぼろぼろの状態だった」という。好きな酒の量も増えていたようだが、「ミーチャンでGⅠも勝ったし」と自らを慰めてきた。主戦ジョッキーとして再騎乗を願い、依頼を受けた日々の調教に励んでいた。

 ハマちゃんとの雑談では、「あれっ、おかしいな」と感じたことがあった。1年余り前には、ラブミーチャンの名古屋でら馬スプリントV2で、自身も大きな節目となる通算2500勝を達成した。「笠松での記念セレモニーで、色紙にサインをしてもらいましたよ」と告げると、なぜか「えっ、2000勝じゃなかった?」と聞いてきた。自分の勝ち星の記憶も薄れていたのか。色紙には「2500勝」とも書いてくれたし、セレモニーでは「けがで10カ月休んで復帰した時には、ファンの『おかえり』の声がありがたかった。次は2501勝目を目指します」とハマちゃんスマイル全開で喜びを語っていたのに...。アンカツさんの笠松での引退セレモニーでは花束を手渡していたが、笠松の最年長ジョッキーとして、心身ともに「限界」が近づいていたのかもしれなかった。

ワールドスーパージョッキーズシリーズ第3戦、1着でゴールした後、ウイナーズサークルでファンの声援に応える浜口さん=阪神競馬場

 ハマちゃんといえば、ラブミーチャンのほか、アラブの女傑・スズノキャスターやエンプレス杯(GⅡ、川崎)3着のクインオブクインら牝馬との相性が良かった。国内外のトップ騎手14人が腕を競った06年のワールドスーパージョッキーズシリーズ(阪神)では、地方競馬代表としてただ一人出場。「あの時は、すごい追い込みでJRA初勝利を飾りましたね」とたたえると、「あれは気持ち良かった。でも、しょうちゃん(川原正一騎手=元笠松所属)は、すごいよ。総合優勝しているからね」と、園田移籍後の活躍も含めて、同世代の健在ぶりを励みにしていたようだ。ラブミーチャンでの全日本2歳優駿Vも振り返り、「GⅠジョッキーになりましたね。応援していたおかげで、馬券も取らせてもらいましたよ」と感謝すると、「やったじゃん、それは良かった」と一緒に喜んでくれたことが懐かしく思い出される。

 若い地方競馬ファンにも語り継ぎたい2レース。ワールドスーパージョッキーズに挑んだ阪神競馬場のパドックには、「ハマちゃんスマイルさく裂」「笑顔の浜口楠彦」と書かれた横断幕が並び、笠松から駆け付けた応援団が激励。シリーズ第3戦ではアドマイヤディーノに騎乗。外国人騎手や武豊騎手らと腕を競い、後方12番手から直線一気の豪脚で突き抜け、JRA初勝利を飾った。初めてというガッツポーズも出て「騎手生活30年で夢がかなった」と、ファンの大きな声援に応えていた。

全日本2歳優駿で優勝。4歳になってからもJBCスプリントに向けて笠松で追い切りを行うラブミーチャンと浜口さん。GⅠ再挑戦は4着だった

 「快速娘」と呼ばれたラブミーチャンでの全日本2歳優駿Vは、ハマちゃんのジョッキー人生でも最高の輝きを放ったレース。スタートは速かったし、最後の直線では迫ってきたJRA勢を突き放す強い勝ち方。2着ブンブイチドウ(岩田康誠騎手)に1馬身半差をつけて完勝。ゴール後も勢いがすごくて3コーナーまで行ってしまい、1周することで夢舞台での歓喜のウイニングランになった。ファンに手を上げたら盛り上がってくれて、最高の気分だったという。GⅡの兵庫ジュニアグランプリに続いてGⅠ制覇が決め手となり、2歳馬として史上初めてとなる地方競馬の年度代表馬(NARグランプリ2009)に選出された。その後もJBCスプリントでGⅠ挑戦を続け、11年は惜しくも4着だったが、東京杯(GⅡ、大井)などダートグレード競走で計5勝を飾った。

最後となった追い切りに向かうラブミーチャンと藤原幹生騎手、柳江仁調教師、森崎隆厩務員。JBCスプリントに出走予定だったが、骨折し引退が決まった

 ハマちゃんが亡くなる1週間前、金沢でのJBCスプリントを目指していたラブミーチャンは、追い切り中に右前脚を骨折。藤原幹生騎手が騎乗していたが、その日のうちに引退して繁殖入りすることが決まった。周囲は凍り付いていたが、管理していた柳江仁調教師によると「夏場の疲れで、フットワークが乱れ、脚をかばいつつだった。疲労骨折のような感じで、自分で急に止まってしまった」という。

 前から年度内の引退は決まっていたが、笠松でのラストラン(オッズパークグランプリ)では、ハマちゃんが騎乗予定だった。繁殖後の産駒を預かることを楽しみにしていたのは柳江調教師。「ミーチャンの連続ドラマがまた始まる」と新馬から強い馬に育てる夢を広げていたが、14年12月、円城寺厩舎内で事故に遭い、暴れだした馬を制御できず、頭を強く打って亡くなられた。05年以降、笠松では「単年度赤字なら即廃止」という厳しい競馬場経営を迫られてきた。その最も苦しい時代に「笠松の看板娘」としてラブミーチャンを育てた名トレーナー。レース後に話を聞くと、「おしゃべり調教師」とも言われた通り、気さくでいつも長電話になった。全国で勝ち取った輝かしい優勝レイの数々とともに、馬券販売アップにも貢献し、笠松競馬の存続・復興への大きな力となった。

ラブミーチャン引退式では、亡くなった浜口さんをしのぶ献花台も設けられ、ファンらが「ハマちゃん、ありがとう」と感謝した

 ラブミーチャンの引退セレモニー(14年2月)では、ラストランは見送られたが、名牝の引退を惜しむファンらが、その功績をたたえた。場内にはハマちゃんの写真が飾られた献花台も設けられ、小林祥晃オーナーや調教師夫妻、厩務員らが手を合わせた。こみ上げるものがあり、思わず「ハマちゃん!」と大声で呼び掛けると、ファンからも「ハマちゃん、ありがとう」の声が一斉に上がった。ラブミーチャンを「天から舞い降りた女神」と表現していたハマちゃん。笠松のトップジョッキーだった安藤兄弟や川原騎手らが抜けた後も、古き良き競馬場存続のため、体を張って走り続けた。そして、現役のまま完全燃焼で燃え尽きた。ユニークなキャラクターも魅力的で、笠松競馬史上、ファンに最も愛されたジョッキーだった。